2026/9/13 TOKYO FES Sep. 2026 OUR SINS RESONANCE 2 にて頒布。
ドーセント時代のホンル(後のカリストホンル)と、薬指スチューデントのイサンでホンイサという捏造設定および謎世界線。 薬指なのでそれなりのゴア表現があります。
文庫212P(表紙込み)、表紙箔押し
イベント頒布価格¥1,500
Booth頒布価格¥1,600
▼Booth通販はこちらから(現在通販予約受付中です。発送はイベント翌日以降になります。)
https://hurutake.booth.pm/items/8671637
(1)剥製
死臭、というのは身体派にとって、否、薬指にとっては身近な香りのひとつだ。
血の鉄臭さ、腐敗防止剤の薬臭さ。薬指、特に身体派に属する者のアトリエには常に漂う香り。夜の更けた時間、展示室の向こうに灯る燈台のような青白い照明の下、ホンルはただ一人、作業台に肘を乗せて、頬杖をついていた。
左腕は義体だ。実家の財力を使って、名のある工房で誂えた精巧な義肢は、細い指先の一本一本に至るまで生身であったころと変わらぬ触覚と微細な動きを可能にしていた。
薬指の構成員にとって、身体の欠損は珍しいことではない。特に、身体派においては芸術への献身の証であり、ドーセントとなった今も、彼はその義体を誇りとは表現しないまでも、不便だとも煩わしいとも思わなかった。
作業台の上には、三十二本の肋骨が整然と並べられていた。
人間ひとりの肋骨を全て取り出し、一本一本の弧度を均一に調整した上で真空乾燥処理を施す。それだけで三日を要した。乾燥した骨は、白というよりもどこか灰色がかった象牙の色を帯びており、薄暗いアトリエの中でほのかに光を反射していた。ホンルは義体の指先で、その一本を拾い上げた。指先に伝わる重量と質感が、脳へ直接信号として送られてくる。
現実の感触と変わらない、完璧な義体だ。
「……ここを、こうして」
彼は独り言ち、肋骨を作業台の上に戻した。今日一日で二百四十五のパターンを試したが、どれもまだ何かが足りなかった。足りない、というよりも、あと一歩、何か決定的な着想が欠けていた。
ホンルは顎に手を当てて思案した。翡翠色の瞳が、並べた肋骨の列を緩やかに追う。彼の瞳は、時折彼の意思に反して瞳孔が収縮して、光を放つ。
鴻園にいた頃はその瞳、そしてその持ち主であるホンルはジア家の宝玉として丁重に扱われてきた。
だが、ホンルの瞳の本質が何なのか、ホンルにその翠緑を埋め込んだ者たち以外、知る者はいなかった。この薬指に入るまでは。
――『おや、その瞳……義眼か。はは、面白い発想だ』
当時、薬指身体派のマエストロの一人が、ホンルの瞳が義眼であることを一目で見抜いた。さらに、その義眼が何を行っているのかも。ホンルがその瞳の「役割」を話すと、マエストロはホンルを責めることなく、作品作りをしてみないかと持ちかけた。
――『素材は……ああ、君の入れ替えた瞳は、もう持っていないのか?』
そこから、大急ぎで鴻園に保管されていた自分の瞳の片割れを取り寄せ、マエストロから課された作品作りに没頭した。
ホンルの瞳はホルマリン漬けにされ当時の面影をそのまま残していた。大きさは成人の七割ほど、重さは三分の一程度しかない。新生児の頃に取り出された眼球は虹彩に色素沈着がなく、今のホンルの右目とも違う、青灰色をしていた。
れを見たときに初めて、ホンルは芸術家としてのインスピレーションの漲りと、アドレナリンが迸る感覚というのを味わった。
短い回想を終えて、ホンルは再び目の前の肋骨の群れに視線を落とした。
あの頃の、荒れ狂うような着想が今は懐かしく、そして恋しい。
廊下を散策して、気分転換ついでに新たな素材を探しに出るか。はたまた、締め切りに追われているスチューデント達のアトリエを訪れてみるか。あるいは、もう少しここで煮詰まってみるか。しばし考えて、ホンルは後者を選んだ。
今夜は徹夜だ、とホンルは義体の左手で顎をなぞる。肋骨の配列が定まらないまま、時計の針だけが進んでいく。こういう夜は珍しくない。着想が半分まで来ていながら、最後のピースが見つからない。
鴻園にいた頃は、煮詰まるという感覚すら知らなかった。あの場所には、考えるべき問いなど存在しなかったのだから。
ホンルは作業台から離れ、窓際に歩み寄った。ホンルのアトリエはあえて窓をつけ、日没や夜明けがわかるようにしている。
義体の右足と本物の左足が交互に床を踏む規則的な音が、静まり返ったアトリエに響く。都市の夜景が、細い窓格子の向こうに広がっている。光の無数の点が、遠く近く瞬いている。
(――点、か。)
思いかけて、ホンルは苦笑した。あれは身体派の発想ではない。点で面を作るのは点描派の領分だ。
点描派と言えば、ある新入りが今日、スチューデントとして認められたと聞いた。点描派が研究を行っている鏡技術を開発した張本人で、行き場に困っていた彼を丁重に『保護』したのだと。
必要であれば有能な技術者を誘拐することさえ厭わない組織だ。最初は『保護』などと白々しい、と思っていたが――。
「もうスチューデントですか。早いですね」
今回の『保護』は本当のことだったらしい。
スチューデントの優秀作品であれば、点描派のギャラリーに展示されるだろう。
ホンルは肋骨の並びに目を戻した。
ホンルの求める芸術の域に到達できない肋骨群が、あんなに時間をかけて下準備をした素材が今はただのガラクタに見える。
ホンルは、少し考え込むように息を吐くと、カーテンを閉め、ベッドへと向かった。先ほど自分に下した徹夜、という判断を取りやめる。
明日、ギャラリーへ行って、例のスチューデントの作品を見に行こう。見習いの作品に着想を求めようとするなんて、ドーセントとしては恥ずべきことだと思うべきなのだろうが、今のホンルには、それ以外に欠けた着想を埋める術が見つからなかった。
薬指という組織において「スチューデント」として認められることは、単なる資格取得を意味しない。
それは、この組織が求める芸術的価値の基準に自らの作品が到達したという証明であり、構成員としての最初の免状でもある。スチューデントの審査はドーセント以上の構成員が行い、作品に対して五段階の評価を付す。最低水準を二度下回った者は保護を失い、三度目の不合格は即刻処刑を意味する。だから、たとえスチューデントとして認められたとしても、薬指の新入りたちは、笑えるほど必死に、あるいは笑えないほど真剣に、自分の命と引き換えに芸術と向き合い、――あるいは見失って――玉石混合の多くの作品が生まれ、その中には、時折、真に息を呑むような傑作が混じる。
そして、その傑作の多くは、死への恐怖から生まれていない。
ホンルはそれを知っていた。自分自身がそうだったから。「それ」を言葉で形容するのは難しいが、強いて言うならば、ホンルの場合、「よろこび」という感情が最も近い。
点描派のスチューデント、彼の作品は一体何から生まれたのだろうか。
◇
翌朝、ホンルは点描派の一般ギャラリーを訪れた。ドーセントやマエストロのギャラリーは芸術作品は視線による摩耗を避けるため、ギャラリーへの訪問には事前の許可が必要だが、スチューデントのギャラリーはそうではない。まだ高値がつくような芸術作品とは言えないし、むしろ積極的に公開して先達からの評価や師事を受けることの方が重要だからだ。
ギャラリーを闊歩しながら、ホンルは左右の壁を眺めた。スチューデントとして新たに認定された者たちの初期作品が、白い壁に均等な間隔で掛けられている。
野獣派の新人が持ち込んだ、剥製にした犬の頭部を二十個並べたオブジェ。身体派の若者が提出した、人間の皮膚を極限まで薄く伸ばしてコラージュした半透明のパネル。
どちらも技術的に申し分はない。しかし、ホンルの目にはどこか無難でつまらないものに映った。「上手い」という言葉が出てくる時点で、心は動いていない。ドーセントとして、指摘すべき点が頭の中に並ぶだけだ。
野獣派の作品は、剥製の技術は申し分ないが素材の配置が甘い。立体物を取り扱うならば、様々な角度から見られることを意識せねばならないが、少し立ち位置を変えてみただけで、凡庸なものに成り下がる。
身体派のパネルは、発想は素晴らしいが、繊細な作品ゆえに少しの素材の扱いのミスが見えやすい。例えば、皮膚組織を伸ばしたときの伸展の不均一さ。わざと不均一にしているのであれば、その意図が読めないし、そうでないならば、只の未熟さとしてしか映らない。
その身体派の作品の横に、あのスチューデントの作品があった。
一般的な五十号のキャンパス。布の地色はほとんど見えない。全面を無数の微細な点の集積が埋め尽くしていた。
近づいて見ると、それが点の集まりであることが分かる。遠ざかると、点と点が溶け合って、一枚の絵として立ち上がってくる。描かれているのは、翼だった。
翼、と言ってもそれは天使のそれではない。大きく折れた、傷だらけの片翼が、昆虫標本のように針を打たれ、広げられている。羽毛の一本一本が、それぞれ異なる色の点で構成されており、折れた軸の部分には黒に近い深い色が重なり、先端に向かうにつれて白みが増す。しかしその白は清潔な白ではなく、くすんだ灰白で、長い間雨に打たれ続けた翼を思わせる。
――色の種類が、異常に多い。
一見すれば、黒と白の絵具しか使用していないように見える。だが、実際は違う。色温度と明暗、彩度――すべて異なる絵具の点が、一定の体系に従って配置されている。無秩序に混ざり合っているように見えて、一定の距離から目を細めると、そこには明確な構造が現れる。羽根の重なりを示す明暗、折れた軸の物理的な構造を忠実に再現した陰影、先端の傷が示す微細なグラデーション。
点の一つ一つが、明確な意味と意図を持って打たれていた。
作品名は、『剥製』。ホンルはそれを、珍しく長い時間眺め続けた。
優秀な作品というのは、物質化できない感情や概念を明確な形にして訴えてくるものだ。この作品から、真っ先に感じ取れた感情は――。
「貴方の目にも留まったか」
ホンルの思索を遮って声をかけてきたのは、顔見知りの点描派のドーセントだった。彼女はホンルの隣に並んで、作品を見上げた。
「昨日認定されたスチューデントの作品よ。イサンという名前の」
「こちらにも噂は届いています。所属したばかりの元技術者だと」
「ええ。最初は、彼には芸術よりも技術の面に期待していたのだけれど……」
彼女は笑い、良い子が入った、と呟いた。
「点描派での評価は?」
「先に、貴方の評価はどう?」
「――間違いなくAはあげますね。悩みどころは、A+を与えるかどうかですが」
ホンルがそう言うと、点描派のドーセントは意外そうに目を丸くした。
「こちらの評価は満場一致でA+だった。評価の理由を聞いても?」
「想像に過ぎませんが、彼にとってこの作品はまだ足がかりにしか過ぎない、という気がします。まだ、もっと良いものが描けると思います」
「なるほど、今後の期待も込めてAと」
ホンルの言葉に満足そうに頷いた彼女は、ホンルの後ろを通り過ぎて去って行った。その後ろ姿を見て、ホンルは先ほどの柔和な視線を鋭く細めた。
――あからさまに不機嫌になりましたね
身体派であるホンルが、点描派と違う評価を下したことが気に入らないのだろう。隠してはいたようだが、このような場面はこれまでも何回もあった。
身体派は衰退の道を辿っている。同じ階級であっても、他の派閥からは時代遅れだと下に見られているのが、身体派の現状だ。
くだらない派閥闘争で気分を害されることに辟易しながら、ホンルは気分を切り替えて、改めてイサンの作品、『剥製』に視線を戻した。
「使っている絵具……既製品だけではないですね」
絵画については、点描派レベルの造詣があるわけではないが、使用している絵具が何かくらいは大体の見当はつく。
翼の先端、最も薄い灰白の点に目を凝らす。生きていたものの、わずかな体温のような温度がある。人間の骨粉にしては少し違和感があった。
かなり眼を凝らすと、わずかに煌めく微細な粒を見つけた。
「これは――」
宝石、硝子、銀、と当てはまりそうな素材を思い浮かべ、合致するものを見つけようとする。
「……鏡」
もはや本来の役割を果たせぬほど、細かく磨り潰された鏡だ。
鏡技術の開発者だという経歴は聞いていた。だが、自らの過去の技術を砕いて、顔料に変えるという発想。それも、翼の最も傷ついた先端にだけ、それを混ぜるという選択。
ホンルは口元に手を当てた。義体の指先が、微かに震えている。
この作品は、他のスチューデントの作品にありがちな、恐怖からは生まれていない。かといって、ホンルのような歓喜からでもない。もっと静かな、決別に似た何かから生まれている。折れた翼を標本にするという行為。過去を殺して、殺した過去を美しく展示して、見世物にするという行為。
「……会ってみたいですね」
ホンルは呟いて、キャンバスから一歩下がった。距離を取ると、無数の点は再び一枚の翼に溶け合い、針に打たれたまま、静かにホンルを見下ろしていた。
◇
廊下に出て、スチューデントのアトリエ棟に続く扉を開く。見習いに与えられる部屋は狭く、天井も低い。それでも都市の裏路地の住人からすれば、楽園に等しい。
ホンルは廊下を進みながら、扉に掛けられた名札を順に確認していった。突き当たりから二番目、他の部屋と同じ規格の鉄扉に、インクも新しい名札が掛かっている。
――イサン。
一応、礼儀としてノックをしたが、返事はない。もう一度叩いても、扉の向こうからは物音ひとつしなかった。留守だろうか、と考えかけたところで、ホンルは扉の下の隙間から漏れる燈火の色に気づいた。
「失礼しますね」
ドーセントには、スチューデントのアトリエへ立ち入る権限がある。ホンルは把手を回した。鍵は掛かっていなかった。
部屋の中は、まだ午前中だというのに、真っ暗だった。
窓という窓に厚いカーテンが引かれ、昼の光は完全に締め出されている。部屋の中央、イーゼルの脇に置かれた小さなランプだけが、橙色の光の球をつくっていた。その光の縁に、男が一人、背を向けて座っている。
黒髪。瘦せた背中。羽織った上着の袖口は絵具で汚れ、床には使い潰された筆が、几帳面に太さの順で並べられていた。男は振り向きもしない。筆先がキャンバスに触れる、こつ、こつ、という規則的な音だけが続いている。点を打つ音だ、とホンルは気づいた。
「お仕事中にすみません。身体派のドーセントで、ホンルと言います。あなたの『剥製』を拝見して――」
「……ドーセント様のお目に叶うならば、光栄なりや」
声は静かで、抑揚に乏しかった。筆を止めることなく、イサンはキャンパスに目を釘付けにしたまま言う。
取り付く島もない、とはこのことだろう。並のドーセントなら階級を盾に不敬を咎める場面だ。実際、この裏路地でこの返答は、処刑理由として十分に成立する。
だが、ホンルは笑った。声を出さず、肩だけで。
ああ、いい。実にいい。この男の中では、階級も、自分の命の危険も、目の前の一点の密度より軽いのだ。
「では、こうしましょう」
ホンルは部屋を横切り、窓辺のカーテンに手を掛けた。
「カァテンは開くでない」
初めて、筆が止まった。
「開けませんよ。ただ、手を掛けただけです。――こちらを向いていただく方法を、ひとつしか思いつかなかったので。そんなに、空を見るのがお嫌いですか?」
沈黙があった。やがて、椅子の脚が床を擦る音がして、男が緩慢に振り返った。
右目の下に、涙の形の入れ墨。ランプの光を受けても濁らない、静かで昏く、黒い瞳。年齢はホンルよりも年上のように見える。
イサンは、ホンルを見る。――正確には、ホンルの眼を。
「……」
沈黙が、先ほどとは違う質に変わった。イサンの視線は、ホンルの翡翠色の虹彩に注がれたまま動かない。それから、ゆっくりと、藍がかった黒髪へ移り、また瞳へ戻った。
「――失敬。翠と呼ぶには青が勝ち、碧と呼ぶには光が強し」
イサンは、独り言のように呟いた。
「あなた様の虹彩、既製の絵具にては再現叶わぬ色なり。……して、その髪。黒と見えて、燈下にては藍が泛(うか)ぶ。逆光にては紫が差すやも知れず」
「ふふ。初対面の相手の身体を、素材として値踏みするんですね」
「無礼なりや?」
「いいえ。この指では、最上の賛辞でしょう」
ホンルはカーテンから手を離し、両手を軽く広げてみせた。
「どうぞ、ご覧ください。観察に許可は要りませんよ。――ああ、でも、そうですね。見返り無しというのも締まりがない。代わりに、僕にもあなたの着想の欠片を分けてください。それで対等です」
イサンは瞬きをした。それから、部屋の隅の丸椅子を無言で指した。座れ、ということらしい。
ホンルは素直に腰を下ろした。ランプの光が届くか届かないかの位置で、義体でない方の足を組む。イサンはイーゼルを僅かにずらし、ホンルの顔がよく見える角度に椅子を直すと、新しい紙を画板に留めた。
「動くべからず」
「はい、先生」
「……揶揄か」
「ふふ、やっぱりわざとらしかったですか? でも、僕より年上ですよね?」
筆ではなく、鉛筆が紙を走り始めた。色を採るための下観察、というところだろう。ホンルは静止したまま、目だけでアトリエの中を見渡した。
狭い部屋だ。寝台はあるが、使われた形跡が薄い。机の上には数十本の絵具のチューブと、乳鉢、そして硝子の小瓶が並ぶ。小瓶の中身は粉末だ。骨粉、貝殻、金属粉――そして、あの鏡の粉。
瓶のラベルには、几帳面な字で日付と配合が記されている。技術者の字だ、とホンルは思った。芸術家の字ではなく。
「では、イサンさん、とお呼びしても?」
「好きにしたまえ」
「では、イサンさん。ひとつ伺っても? あの『剥製』――あの翼は、誰のものですか」
鉛筆の音が、一拍だけ途切れた。
「……鳥類の翼の骨格標本など、資料室に幾らでもあらん」
「ええ、ありますね。でも、あれは資料を写した翼ではないでしょう。あの翼は、一度飛ぼうとした翼。でも結局飛べないまま、折られて、砕かれて、標本になった。――僕はそう視ました。観覧客の一人として」
イサンの目が、紙からホンルへ上がった。ランプの橙を吸って、虹彩の縁だけが仄かに明るい。
「……あなた様は」
長い沈黙があった。
「評すること、点描派のドーセント様よりも、いくらか巧みなり」
「おや、それは満場一致でA+を出した方々に失礼では?」
「A+は絵に付きし値なり。――今のは、翼に付きし値なれば」
それきり、イサンは黙って鉛筆を動かし続けた。ホンルも、それ以上は問わなかった。
しかし、確信を得ることはできた。
肋骨二百四十五パターンの果てに欠けていた最後の着想。その在処が、この暗い部屋のどこかに――この、翼を殺して標本にした男のどこかに、あるという確信が。
◇
扉が閉まり、義体の足音が廊下の向こうへ遠ざかっていくのを、イサンは鉛筆を握ったまま聞いていた。
画板の上には、線描が残っている。頬骨から顎への稜線、瞼の弧、髪の流れ。そして余白には、色についての覚え書きが、几帳面な小さい字でびっしりと書き込まれていた。
――虹彩:翡翠と呼称さるるも不正確。地は青緑、光源下にて黄の粒子が浮上。瞳孔収縮時、自発光の疑いあり。要再観察。
――頭髪:黒。燈下にて藍。推定、逆光下にて紫。三色の遷移を再現するには、下層に藍、上に黒の疎の点、最表層に――――
そこまで書いて、イサンは鉛筆を置いた。
自発光の疑いあり、の一行を、指の腹でなぞる。観察の途中、あの男の瞳孔は確かに一度、意思と無関係に収縮した。そしてその瞬間、虹彩の奥で、燐光に似た微かな光が瞬いたのだ。
(――義眼、であろうな。)
イサンは驚かなかった。鏡技術の開発者として、N社で精密光学に触れてきた身だ。あれが只の硝子玉でないことくらいは分かる。むしろ、あの光の正体よりも、興味を惹かれたのは色の方だった。
再現できない色、というものが、この世にはある。
顔料は反射でしか色を作れない。だが、あの虹彩は内側から光を足してくる。反射と発光の混色。既製の絵具では、絶対に届かない。
(……あな、久しきかな。この感覚)
欲しい、と思った。あの色が。
素材として、標本として、点として。
イサンは椅子の背にもたれ、暗い天井を見上げた。ランプの油が減って、光の球が一回り小さくなっている。
薬指に『保護』されて、まだ日は浅い。
裏路地の乾いた側溝に蹲っていたところを、点描派の勧誘者に拾われた。正確には、拾われる三日前から観察されていた。側溝の汚水が乾いて残した染みを、割れた瓦礫の先で一日中なぞっていたイサンを、彼らは「見込みあり」と判断したらしい。
連れて行かれた先で、紙と筆を与えられた。
描け、と言われて、描いた。
描いたものが、あの翼だった。
描いている間、イサンは何も考えていなかった。九人会のことも、クボのことも、投与され続けた薬の、舌の根に残る苦味のことも。ただ、点を打つたびに、頭の中の霧が一粒ずつ吸い出されていくような感覚だけがあった。
打ち終わって、筆を置いて、出来上がったものを見て、イサンは理解した。
ああ、私は、これを殺したかったのか。
翼。かつて確かに在ると信じたもの。九人会という止まり木の上で、仲間たちと見果てぬ空を語った日々。技術開発に明け暮れ、いつか皆で飛び立つのだと、疑いもしなかった――笑えるほど愚かな、思考停止した霧の中のような日々。
あの日々に、価値などなかった。
今のイサンには、それがはっきりと分かる。翼は折れたのではない。元より、飛べる代物ではなかったのだ。ならば標本にして、針を打ち、額装するのが正しい。
――されど。
イサンは目を閉じた。瞼の裏に、鏡の中の自分が浮かぶ。
クボの部屋から逃げ出す直前、鏡越しに語りかけてきた、もう一人の自分。サンイ。あの助言がなければ、イサンは今も、あの薬の霧の中で緩慢に溶けていただろう。
逃げて、堕ちて、側溝で染みをなぞって、拾われて。
そうして辿り着いたこの狭い部屋を、イサンは悪くないと思っている。
点描派の理念は明快だった。世界は点の集積である。感情も、記憶も、翼も、分解すれば点に還る。点に還元できぬものは存在しない。存在しないものに、心を痛める必要はない。
なんと風通しの良い思想だろう。
N社の同僚たちが聞けば眉を顰め、九人会の仲間たちが聞けば悲しんだかもしれない。だが、彼らはもういないし、いたところで、彼らの評価軸はもうイサンの内側では効力を失っている。
今のイサンを縛る評価軸は、ただ一つ。
薬指の審査。五段階の評価。二度の落第で保護を失い、三度目で処刑。
(合理的なり)
命を賭け金にした創作。悪くない。命の停止はすなわち作品を創る機会の消失を意味するから、死は避けるべきだが、それは死が恐ろしいからではなく、単に機会損失だからだ。眠りすら惜しい。眠りは死の稽古のようなものだ。ならば一瞬一瞬を、ただ作品に投資すべきである。
イサンは立ち上がり、机の小瓶の列を確かめた。
鏡の粉の瓶は、残り三分の一。『剥製』でほとんど使い切った。あの粉は、N社から逃げる時に唯一持ち出した、鏡の破片から作ったものだ。過去の遺物としては上出来の使い途だったが、もう補充は利かない。
次の作品には、次の素材が要る。
脳裏に、先刻の翡翠がよぎった。
(あの御仁――)
ホンル、と名乗った――身体派のドーセント。
身体派。人間の筋肉と骨が持つ収縮と置換を利用して作品を表現する、衰退の一途を辿る派閥。点描派の兄弟子たちは、彼らを「肉屋」と呼んで嘲笑う。時代遅れの、悪趣味な、人体すら点に還元できぬ蒙昧の徒と。
だが、とイサンは思う。
あの男の眼は、蒙昧の眼ではなかった。
『剥製』を一瞥して、翼の出自を言い当てた。技術ではなく、点の配列でもなく、あの絵が「何を殺したのか」を視た。満場一致でA+を付けた点描派の誰一人として、そこには触れなかったのに。
――評すること、いくらか巧みなり。
我ながら、素直でない物言いだったと思う。
本当は、少しだけ、心臓が跳ねたのだ。頭の中の霧を晴らして以来、初めて。点を打つ瞬間以外で、初めて。
イサンは画板の覚え書きに、最後の一行を書き加えた。
――当該素材の所有者:ホンル。身体派ドーセント。再訪の価値、大いにあり。
書き終えて、ふと、自分の口元が僅かに緩んでいることに気づき、イサンは真顔に戻って筆を洗い始めた。
◇
二度目の来訪は、十日後だった。
今度はホンルの方が自らの住処にイサンを招いた。身体派の居住区の最奥、ホンルの個人ギャラリーへ。
「ここは、僕のあらゆる技術と着想が集積したギャラリー。全ての作品は筋繊維の収縮と弛緩を基盤に、神経反射の経路を繊細に再構築してあるんです」
ホンルは廊下を先導しながら、歌うように言った。青白い照明の下、左右の展示台には彼のこれまでの作品が並んでいる。
人間の背骨を螺旋階段状に組み直し、各椎骨の間に眼球を嵌め込んだ塔。四肢の腱だけを取り出して編み上げた、風もないのに揺れ続けるモビール。頭蓋骨の内側に都市の夜景を彫り込んだ、覗き込む方式の小さなジオラマ。
防腐処理の薬臭さと、その下に沈む死臭。
イサンは、一つ一つの前で立ち止まり、長い時間をかけて眺めた。眉も動かさず、感嘆もせず、ただ観察した。ホンルはその横顔を、作品よりも面白そうに眺めていた。
「この作品は……この腱を軽く引くだけで、こんなにも華やかなコラボレーションが生まれるんですよ」
ホンルが展示台の縁から垂れた一本の腱を、義体の指で軽く引いた。
瞬間、モビールの揺れが変わった。編まれた腱の一本一本が異なる周期で収縮し、乾いた骨の風鈴がからからと鳴り、塔に嵌め込まれた眼球が一斉に、ぐるりと入口の方を向いた。
死んだ人間の眼が、二十四個、イサンを見た。
「……ふぅむ」
イサンは顎に手を当てた。
「神経反射の経路を、外部刺激にて再点火せるか。死して尚、視るという機能だけが作品の内に生かされたり。――視線の集積を以て、観覧客を逆に『観覧』する装置なるか」
「――――」
今度は、ホンルが沈黙する番だった。
「おや。外れなりや?」
「いいえ」
ホンルは、ゆっくりと首を振った。
「この作品を発表した時、評はほとんど『技巧の粋』でした。眼球の防腐が見事だとか、神経の再構築が精緻だとか。……観る側と観られる側の逆転に言及したのは、あなたが初めてです」
「然様か。……これまた、胸こそ高鳴れ」
抑揚のない声でそう言うので、ホンルは吹き出した。
「胸、高鳴ってます? その顔で?」
「高鳴りたり。……表情筋は、点を打つに不要なれば、久しく使いておらぬだけなり」
「ふふ、ふふふ。いいですね。あなたのそういうところ、とっても、面白い」
ホンルは笑いながら、ギャラリーの最奥へイサンを導いた。突き当たりの作業室――アトリエには、例の肋骨が、三十二本、作業台に並んだままになっている。
「未完成の作品を見せるのは、本当は恥ずかしいことなんですけどね」
「……肋骨。一人ではなく、複数の人間から選び取られしものなり」
「ええ、そのうち二本は僕のものです。第十一と第十二、いわゆる浮遊肋骨。作品に自分を混ぜるのが、僕の流儀なので」
こともなげに言って、ホンルは肋骨の一本を摘まみ上げた。
「配列が決まらないんです。二百四十五……いえ、今朝で二百六十一パターン。どれも納得がいかなくて」
イサンは作業台に歩み寄り、肋骨の群れを見下ろした。それから、断りもなく一本を手に取り、ランプに翳した。
「……乾燥、均一なり。弧度の調整も。素材としては申し分なし」
「でしょう?」
「されど」
イサンは肋骨を置いた。
「肋骨の本義――内の何かを守るという機能から、離れられておらず。守るべき臓腑は疾うに失せたるに、骨だけが未だ、在らぬものを守らんとす」
沈黙が落ちた。
ホンルは瞬きを忘れて、イサンを見ていた。翡翠の瞳孔が、外光と無関係に、きゅうと収縮する。
空の鳥籠。
守るべきものを失ってなお、形だけ守り続ける骨。
――ああ。
それは、鴻園ではないか。
とうに空洞になった一族の威光を、姻戚と血脈の格子で囲い続ける、あの巨大な鳥籠。その中でホンルは宝玉と呼ばれ、翡翠の義眼を嵌め込まれ、飾られていた。
「……イサンさん」
「む」
「あなた、やっぱり素敵ですね。――決めました。この作品、鳥籠にします。空っぽの、大きな、誰も入っていない鳥籠に。守るものがないのに閉じ続ける、骨の籠に」
ホンルは義体の指を組み合わせ、うっとりと目を細めた。頭の中で、二百六十一の失敗が音を立てて崩れ、まったく新しい配列が組み上がっていく。肋骨は水平に組むのではない。垂直に、格子として立てるのだ。そして籠の扉にあたる部分にだけ、蝶番として自分の浮遊肋を使う。開くことのない扉。開く必要のない扉。
「着想の欠片、確かに頂きました。それで――」
ホンルはイサンに向き直った。
「対価は何がいいでしょう。僕の目の観察時間? それとも髪? ああ、虹彩の分光データもお渡しできますよ。義眼の設計図の、色彩に関わる頁だけですが」
「分光データ」
イサンは食い気味に言った。
「あらまほし。即刻」
「ふふ、即刻ですか」
「……失敬。されど、あなた様の虹彩、既製の顔料での再現は既に十七回失敗せり。反射光のみにて、発光を含む色を模すは原理的に不可能なれば、せめて分光の数値、あらば――」
「十七回」
ホンルは目を丸くして、それから、心底嬉しそうに笑った。
「僕の目のために、十七回も絵具を無駄にしたんですね。光栄です」
その日、二人は取引を交わした。ホンルは分光データを、イサンは着想を。どちらも、金銭より遥か価値のある物々交換だった。
帰り際、ギャラリーの出口で、イサンはふと足を止めた。
「……時に」
「はい?」
「あなた様を、何と呼ぶべきや」
ホンルは、きょとんとした。
「私にとって、あなた様は身体派の上位者なり。点描派スチューデントたる私がこのように言を交わすことは、本来は叶わぬことなり。『先達』『師兄』『御仁』……いずれも、しっくり来ず。この十日、七つの候補を検討せしが、いずれも棄却……」
「と、十日も考えてたんですか、それ」
ホンルは腹を抱えた。肩を震わせ、目尻に涙さえ滲ませて笑う様を、イサンは怪訝そうに眺めている。
「ふ、ふふ……いや、失礼。――好きに呼べばいいですよ」
「好きに、とは」
「好きに、です。呼ばれて初めて分かることもあるでしょうし」
イサンは、しばし黙考した。
「然らば――人前にては『ドーセント様』と。階級の秩序、乱すべからざれば」
「ええ、無難ですね。それで、二人きりの時はどう読んでくれますか? まさか、二人きりの時もドーセント様なんて、つまらない呼び方はしないですよね?」
「二人きりの折は」
イサンは、ほんの少しだけ、言い淀んだ。
「――ホンル君、と」
「…………君、ですか」
「不服なりや?」
「いいえ」
ホンルは口元を手で覆った。覆いきれない笑みが、指の間から零れている。
「いいえ、ちっとも。……ホンル君。ふふ、初めて呼ばれました、そんな風に。鴻園でも、薬指でも」
「然様か」
「ええ。――気に入りました。二人きりの時は、ぜひそれで」
鉄扉が閉まり、イサンの足音が遠ざかる。
ホンルはしばらくその場に立ち尽くし、それから一人、口の中で転がすように呟いた。
「ホンル君、ねえ」
空の鳥籠の設計図が頭の中で組み上がっていく音と、耳の奥に残る平坦な声とが、その夜は不思議と、同じ温度をしていた。
◇
スチューデントの日々は、存外に忙しい。
たとえ、たかが指輪一周の見習いであっても、気を配るべきことは多いのだ。マエストロの与える課題を忠実に果たし、薬指の保護下に入らんとする住民たちの出す作品を、下読みとして評さねばならない。
その日、イサンに割り当てられた審査補助は、二十六点だった。
保護を求める住民たちが命懸けで提出した作品が、審査室の長机に並んでいる。イサンは端から順に、一点あたり百二十秒で視ていった。
その姿を住民達は祈るような姿で見つめている。
「これも落第……これも落第……」
油彩。構図が借り物である。落第。
木彫。技巧は水準に達するが、芸術的な表現がひとつもない。落第。
情に流されることはなかった。落第の紙片を貼るとき、その作者の余命が一つ減ることも、正確に理解していた。理解した上で、筆に迷いはなかった。基準に満たぬ作品を通せば、腐るのは薬指の土壌そのものだ。自分もまた同じ秤の上に載っている以上、秤を狂わせることは、薬指への裏切りだった。
落第の評価を下された作者は嗚咽のような呻き声を上げるが、イサンの耳には届かない。
二十四点目で、イサンの手が止まった。
「……あっ」
小さな、素焼きの皿だった。釉薬の代わりに、無数の細かい爪の引っ掻き傷で模様が刻まれている。傷は皿の縁から中心へ、渦を巻いて収束していた。よく見れば、傷の密度が渦の内側ほど高い。誰に教わったわけでもないだろうに、これは、点描の理に触れている。
「そなた、B+。ようやくまともな作品を目にしたり」
イサンは作者の名を覚え書きに記した。スチューデントへの昇格許可権限はドーセント以上にあるが、推薦の一筆を添えることは許されている。
審査補助の次は、実地の課題だった。
薬指の縄張りの西の外れに、指の庇護を騙って場所代を徴収するネズミの一団が湧いた。掃除には点描派のドーセント一名と、実地訓練を兼ねてスチューデント三名が随行する。
イサンは、自分の背丈ほどもある筆を担いで、夜の裏路地に立った。
戦闘は、およそ半刻ほどで終わった。
相手の人数は十一人。ドーセントが四人を、他のスチューデント二人が五人を、イサンが二人を処理した。筆の柄は特注の硬質材で、振り抜けば骨を砕く。穂先に含ませた速乾性の顔料は、目に入れば視覚を奪い、気道に入れば呼吸を奪う。
路地の壁に、飛沫が散っていた。赤。それから、イサンの顔料の群青と、脂の黄と、埃の灰。
イサンは筆を杖のように突いて、その壁をしばらく眺めた。
「……あらゆる色で塗られた習作こそが、価値ある芸術なり」
淡々と呟くと、随行のドーセントが苦笑した。
「相変わらずだな。お前は熱心で感心する」
「実地の演習の作品にのみ現るる着想を得るべきや。人の色が最も多く出づるは、生の側に非ず、境目なれば」
境目。生きているものが、物へ変わる、その一瞬の色。
それを最も間近で、最も豊富に見られる場所が、この裏路地には幾らでもある。九人会にいた頃のイサンなら、目を背けたかもしれない。N社の霧の中のイサンなら、そもそも何も見えなかっただろう。
今のイサンは、目を逸らさない。逸らす理由が、どこにもない。
帰路、イサンは筆を担ぎ直しながら、懐から小さな覚え書き帳を出した。今夜観察した色を、忘れないうちに言葉で留めておく。動脈血の朱が空気に触れて沈んでいく速度。眼球から光が引く際の、虹彩の彩度の落ち方。
虹彩、と書いたところで、また、あの翡翠を思い出した。
分光データは、既に貰い受けた。数値としては完全に理解した。理解した上で、二十三回目の再現に失敗した。
反射光で発光は描けない。数値が正しいほど、絶望も正確になる。あの色を点にするためには、根本的に異なる素材が――光を、内側に抱えたまま固まってくれる素材が要る。
……道は、二つ。ひとつめ、素材を開発する。元技術者の腕の見せ所ではある。ふたつめ、諦めて別のアプローチを模索する。
諦める、という選択肢を、イサンは覚え書き帳の上で二重線で消した。
あの色は、諦めるにはあまりに――あまりに、何だろう。適切な語が見つからない。美しい、では足りない。得難い、では即物的に過ぎる。
しばし考えて、イサンは結局、こう書き付けた。
――あの色は、私の翼の絵に、最後まで足りなかった色なり。
書いてから、自分でも意味が分からず、首を傾げた。『剥製』は完成した作品だ。A+を得て、ドーセントらの目に留まり、自分をこの薬指に立たせた一枚だ。あれに、足りない色などあるはずが。
あるはずが、ないのだが。
もし、あの折れた翼のどこか一点に、あの翡翠の光を打てたなら。
あの絵は「殺した過去の標本」ではなく、別の何かになったのではないか――そんな益体もない想像が、この頃、点を打つ手の隙間に、埃のように降り積もるのだった。
2026/7/20 追加分
(2)逢瀬
逢瀬、という言葉を最初に使ったのは、点描派の例の女ドーセントだった。
「近頃、身体派のドーセントと逢瀬を重ねているそうね」
嫌味のつもりだったのだろう。イサンは「観察と取引なり」とだけ返し、彼女は鼻を鳴らして去った。それをホンルに伝えると、彼は例によって腹を抱えて笑い、以来、二人の間ではその言葉が採用された。逢瀬。月に二度か三度、互いのアトリエを行き来する、観察と取引の時間。
ホンルのアトリエでは、鳥籠が育ちつつあった。三十二本の肋骨は垂直に立てられ、緩やかな曲率で円蓋を描き始めている。赤子くらいなら中に入れそうなほどの大きさだ。籠の扉にあたる部分には、ホンル自身の浮遊肋骨が二本、蝶番の位置に据えられていた。開かない扉の、動かない蝶番として。
「観察、始めても良きや?」
「どうぞ」
イサンは椅子をホンルの正面に据え、ランプの位置を調え、ホンルの右目を覗き込んだ。距離、およそ二十センチ。イサンの手元には覚え書き帳と、手製の色見本の紙片が扇形に広がっている。
ホンルはされるがままに、瞬きだけを許された姿勢で座っている。これがいつもの逢瀬の前半だった。イサンが翡翠を観察し、ホンルはその間、イサンを観察する。
睫毛の数を数えられるほどの距離。絵具と溶剤の匂いの奥に、ほんの微かに、頭髪の――生きている人間の匂いがする。死臭に慣れきったホンルの鼻には、それはむしろ珍しい香りだった。
「……瞳孔、また収縮せり。第三種の光か」
「ああ、すみません。勝手に動くんですよ、これ」
「謝罪、不要なり。むしろその瞬間の虹彩が、最も――」
イサンは言葉を切って、覚え書きに何かを書き付けた。最も、の続きは書かれた文字の中にだけある。ホンルはそれをあえて読まなかった。彼が求める色を完成させられれば、じきにわかることだ。
代わりに、ホンルはじっと見ていた。
俯いたイサンの、頭頂から項へ流れる黒髪を。
出会った頃は、獣毛の筆のように短く、無造作に切られていた。それが今は、襟足が上着の襟に触れるほどになっている。伸ばしているのではなく、切る時間すら作品に投資しているだけ、というのは本人の弁だ。
燈下のその黒は、藍を泛べない黒だった。
自分の髪との違いに、最初に気づいたのはいつだったか。ホンルの黒が、光を受けるたび藍や紫を返す饒舌な黒なら、イサンのそれは、ランプの橙を吸ってなお何も返さず、ただ深くなる漆黒だった。彩度という語を捨てた黒。点で世界を写す男が、自分の身体にただ一つ携えている、絶対の無彩色。
髪が伸びる、ということについて、ホンルは近頃よく考える。
身体派の素材は、基本的に死んでいる。防腐処理の瞬間から、素材の時間は止まる。ホンルの技術は、止まった時間をいかに美しく配列するかの技術だ。
だが、髪は。
髪は、奇妙な素材だ。細胞としては死んでいる。角質の連なりに過ぎない。それでいて、生きた身体から、生きた時間を吸い上げて、伸びていく。死んだものが、育つのだ。生と死の境目が、目に見える速度で、長さという形で積もっていく。
鳥籠の次の作品。マエストロの階級に手を掛けるための、決定的な一手。その中心に据えるべき素材が、ホンルの中で像を結びつつあった。
「――イサンさん」
「観察中なり。動くべからず」
「動きません。口だけです。……あなたの髪を、僕にくれませんか」
筆記の音が、止まった。
イサンはホンルを覗き込む姿勢のまま、視線だけを虹彩から、ホンルの目そのものへ引き上げた。観察者の視線から、対話者の視線へ。
「……今、切りて渡すべきか」
「いいえ。今の長さじゃ足りません。伸ばしてほしいんです。これから――そうですね、僕の欲しい長さまで、おおよそ一年半」
「一年半」
「ええ。切らず、染めず、傷めず。あなたの身体で、あなたの時間で、育ててほしいんです。伸びきったら、僕が手ずから切って、頂きます」
イサンは身を起こした。椅子の背に凭れ、腕を組み、しばし天井を見る。思考の間、彼の指は無意識に、自分の襟足に触れていた。
「……問う。なにゆえ、髪か。身体派ならば、骨、腱、眼球、皮膚。素材は選び放題ならん。死体の髪とて、長さの揃うたものが調達できよう」
「死体の髪は、もう伸びませんから」
ホンルは静かに答えた。
「僕が欲しいのは、髪そのものというより、髪に積もる時間なんです。生きた芸術家の身体が、一年半という時間を、素材として育てる。素材の中に、あなたの一年半が――あなたが視たもの、打った点、殺した過去が、一ミリずつ記録されていく。……そういう素材は、注文しても届かない。育ててもらうしかないんです」
「……」
「もちろん、対価は払います。観察時間は無制限。分光データの残りの頁も。それから――あなたが探している『光を抱えたまま固まる媒体』。身体派の防腐技術に、心当たりがあります。硝子体の加工法です。共同研究といきましょう」
イサンの眉が、僅かに動いた。
「……硝子体。眼球の」
「ええ。光を通すために進化した、人体の中で唯一の透明な組織。あれの蛋白質構造を保ったまま樹脂化できれば、あなたの求める顔料の基材になるかもしれません。うちの派閥の、埃を被った古い技術ですけどね」
長い沈黙があった。ランプの油の燃える、小さな音だけがしていた。
やがて、イサンは言った。
「条件を、一つ」
「どうぞ」
「一年半の間、逢瀬の頻度、月三を下回るべからず。……髪の育成状況の、検分もあらんゆえ」
「ふふ」
ホンルは笑った。
「ええ、ええ。喜んで。検分は入念にしませんとね」
「――然らば、契約成立なり。ホンル君」
二人きりの時の呼び名が、契約の印章のように、暗いアトリエに落ちた。
こうして、逢瀬を重ねる一年半が始まった。
◇
二人の契約から半月後、薬指の中で派閥合同の品評会が催された。
年に四度、各派閥が選りすぐりの作品を中央大展示室に持ち寄り、階級を問わず全構成員に公開する。薬指で最も人の集まる夜であり、同時に、最も神経の磨り減る夜でもある。展示の位置、照明の割り当て、観覧客の滞留時間――その全てが、派閥の勢力を測る物差しとして、衆目の下で晒されるからだ。
イサンは、点描派の末席として、その夜、初めて壇上の空気を吸った。
『剥製』が、点描派の出品作の一つに選ばれたのである。スチューデントの作品が合同展示に並ぶのは久方ぶりのことで、兄弟子たちの視線には、賞賛と、それと同量の棘が混ざっていた。
「イサン。せいぜい顔を売っておけ。お前の絵は今夜、派閥の看板の一枚だ」
兄弟子の一人に背を押され、イサンは人の海へ出た。
いわゆる挨拶回りをしろ、ということだろうが、イサンは昔からそう言う交流は苦手だった。九人会の頃は技術の話だけしていればよく、N社では、そもそもそんな役割を求められなかった。芸術家の社交というのは、その双方より、遥かに込み入っている。誰もが笑顔で、誰もが値踏みをしていて、言葉の九割は儀礼で、残りの一割に、刃が仕込まれている。
「これはこれは、君が『剥製』の作者か」
絶対派のドーセントが、杯を片手に寄ってきた。
「点描派は良い拾い物をしたようだ。時に、君、あの翼の顔料について伺いたいのだが――」
三問目までは、技術の質問だった。四問目から、勧誘の匂いがし始めた。元技術者というのであれば、点描派よりも絶対派が向いている――云々。いつもは他の派閥を前時代的だ、不完全だと揶揄するくせに、他所の才能を抜く時だけは、実に融通が利く。イサンが答えあぐねていた、その時だった。
「――おや、絶対派が、僕の共同研究者に何か御用ですか?」
声は、背後から降ってきた。
藍がかった黒髪。翡翠の瞳。人波が、自然に割れて道を作る。身体派のドーセント・ホンルは、衰退した派閥の所属でありながら、この手の場では誰よりも堂に入って見えた。育ちというものだろう、とイサンは場違いな感想を抱いた。
「共同研究者? 初耳ですな、ドーセント・ホンル」
「ええ、先日から。硝子体の樹脂化について、彼の頭脳と身体派に伝わる技巧を突き合わせて研究を行っています。……ですから、彼の顔料の話は、半分は僕の派閥の機密でもあるんですよ。ふふ」
嘘は、一つも言っていない。それでいて、絶対派のドーセントの質問の続きを、綺麗に封じていた。相手は如才なく話題を変え、やがて杯を掲げて離れていった。
「……助け舟、感謝す」
「いいえ。本当のことしか言っていませんし」
周囲の耳を意識してか、ホンルの言葉遣いは、アトリエで話すときよりも他人行儀だった。イサンも、それに倣うべきなのだろう。倣うべきなのだが――さて。
「……ドーセント様、に、おかれても」
我ながら、ぎこちない滑り出しだった。
「出品作、拝見せり。……感嘆の度合い、群を抜きたり」
「それはそれは。恐縮です。イサンさんくらいですよ。別の派閥の方でちゃんと評してくれるのは」
ホンルの目が、笑いを堪えて細くなっていた。ドーセント様、という語を、彼は杯の縁の向こうで、飴玉のように転がして味わっている。イサンは、無性に、この男の脛を蹴りたくなった。階級秩序が、それを許さなかったが。
「時に、ドーセント様」
「はい、なんでしょう」
「……いや。なんでも、なし」
「ふふ。呼んでみたかっただけですか?」
「――否、いま述べるべき言ではないと判断した故」
「そうですか。それなら、後で……」
◇
その夜、遅く。
祭りの後の中央大展示室から、人が引き、明かりが半分に落とされた頃。二人は、誰もいなくなった『剥製』の前に、並んで立っていた。公開の壇に上がった自分の絵を、イサンはうまく直視できずにいた。壁のあれは、もう自分の手を離れて、他人の目に住み始めている。
「先ほどは何を言いかけていたんですか?」
「私の思い違いでなくば――」
そう前置きして、イサンはホンルに尋ねる。
「そなたはずっと、私の作品に視線を注ぎしや?」
ああ、とホンルはイサンの言葉を認めた。
「今夜、何人があの翼の前で足を止めたか、数えていました」
ホンルが言った。もう、他人行儀な言葉遣いではなかった。
「六十七人。そのうち、二分以上留まったのが、二十一人。泣いていたのが、二人」
「……泣く? あの絵で?」
「ええ。不思議ですか?」
「不思議なり。あれは……葬式の絵なれば。私にとりては」
「葬式で人が泣くのは、普通のことでしょう」
イサンは、虚を突かれて黙った。なんというか、あまりにも薬指の人間とは思えぬ言い方だったからだ。
ホンルは絵を見上げたまま、続けた。
「あなたが何を葬ったのかは、観覧客には分かりません。でも、何かが丁寧に葬られたことだけは、点の密度や打ち方で伝わるんです。丁寧な葬送は、見る者に、自分が葬りそこねているものを思い出させる。……だから泣くんですよ。あなたの葬式を借りて、自分の弔いをしていくんです」
「…………」
「万人に伝わる、というのは、そういうことだと僕は思っています。全員が同じものを受け取ることじゃない。全員が、自分の持ちうる感情や想念で、その絵が表しているものを再現できてしまうことです」
薄暗い、中途半端な光の中で、翼は、昼間より深く沈んで見えた。
イサンは、隣の男の横顔を見た。翡翠の目は絵に向けられ、その口元には、いつもの綺麗な笑みではなく、もっと素の、あどけない優しげな顔があった。
「……ホンル君」
人前の呼び名は、もう要らない時刻だ。
「今宵の評、忘れず」
◇
一年半の、最初の三ヶ月は、研究詰めの毎日だった。
硝子体の完全な樹脂化。ホンルが持ち出してきたのは身体派に所蔵されているとある防腐技師の手記だった。頁の半分は黴で読めないうえに、かろうじて読める部分には、眼球の硝子体を「時を止めた水」として保存する技法が、詩のような比喩と正確な温度記録とが混在する奇妙な文体で綴られていた。
「身体派の古い芸術家は、みんなこうなんです。詩人と職人が、同じ頭に同居している」
「読み解くに、相当の時間を要す。……されど、嫌いにあらず」
イサンのアトリエの机は、絵具の瓶を半分どかされ、代わりに小さな蒸留器と恒温槽が据えられた。技術者らしいテキパキとした手際で器具を組むイサンを、ホンルは頬杖をついて眺め、時折、手記の判読不能な箇所を身体派の実技知識で補った。
試作は、七回連続で失敗した。
硝子体は熱に弱く、樹脂化の過程で白濁する。白濁すれば、光を抱えるどころか、光を殺す。八回目、温度曲線を三段階に分けるイサンの案で、初めて、濁りのない小さな塊が生まれた。
親指の先ほどの、透明な珠。
ランプの光を当てると、珠は光を通すのではなく、一拍遅れて、内側からほどくように光った。
「――――!」
二人は、同時に息を呑んだ。
まだ顔料としては使えない。基材ができただけだ。この珠を微細に砕き、発色層を重ね、点として打てる粒度まで整えるには、もっと時間がかかるだろう。
それでも、原理は目の前で光っていた。反射ではない色。内側から来る色。あの翡翠へ至る、道の最初の一歩。
「……胸が高鳴らん」
「奇遇ですね。僕もです」
その夜の逢瀬は、いつもより長かった。
検分――イサンの髪の育成状況の確認は、逢瀬の締めくくりの儀式として、すでに定着していた。イサンが椅子に座り、ホンルがその背後に立つ。義体でない方の右手で髪を梳き、義体の左手で長さを測る。毛先の状態、艶、密度。ホンルの指は素材を検める指で、そこに含みは何もない、はずだった。
「四ヶ月で、鎖骨の下まで来ましたね。よく伸びる髪だ」
「睡眠を四時間に増やしき。毛髪の成育、睡眠時に最も進むと、書物にて読みたり」
「……あなたが、僕のために、睡眠を増やした?」
指が、止まった。
「あの、眠りはただの死の稽古だと言い張って、二時間しか寝なかったあなたが?」
「あくまで、契約の履行に必要であるが故……」
ホンルは声を出さずに笑ったようだった。
梳く指が、また動き出す。項に触れて、髪を掬い、持ち上げて、落とす。角質の連なりでしかない死んだ細胞の束が、指の間を流れ落ちるたび、イサンの胸の内に微かな熱が残った。
その様子を見逃すホンルではない。
「どうかしました?」
黙したままのイサンにホンルは抜けるような息を吐いて、イサンの耳の後ろをそろりとなぞる。
「……揶揄いきや?」
「いいえ。でも、そうですね、僕も一応ドーセントとして、あなたに教えてあげられることがあるのでは、と」
ホンルは後ろからイサンを腕で包むように抱き締める。腕の中でイサンの身体がわずかに強ばった。
「今宵の珠を見て思いました。内より光る色を作ろうとするなら――、それは死体ではなく生体を再現しようとする行為。薬指や路地裏には死体なら溢れるほどありますけど――」
沈黙。
背後で、ホンルが呼吸を一つ、二つ、数えるのが聞こえた。
「迂遠な言い回しはやめよ」
「ふふ、可愛らしい人。お誘いしているんですよ。戯れと思って、僕に暴かれてみませんか?」
イサンは困ったように少し眉尻を下げる。
書物で読んだ限りの行為は、生殖か、快楽か、支配のためのものだった。そのいずれもイサンの目的ではない。イサンが欲しいのは、生きた人間の熱と色の、最も密度の高い観察機会であって――。
そう理由を頭の中で羅列しながらも、自然と視線はホンルの方へ流れていた。
「……一応、聞きますね。初めてですか、こういうのは」
「……実技は。文献のみ」
「実技、文献――……っ! ふふ」
ホンルは今度こそ、堪えきれずに笑った。笑いながら、椅子ごとイサンを回れ右させて、正面から目の高さを合わせた。翡翠の瞳孔が、燈下で細く締まっている。
「この行為はきっと、着想をもたらしてくれますよ。あなたにも、僕にも」
寝台は、使われた形跡の薄いまま、部屋の隅にあった。
ホンルに連れられるまま、燈火に引き寄せられる蝶のような足取りで、イサンはベッドの上に転がされる。
上着の釦に、ホンルの指が重なり、顕わになった素肌に触れる。
他人の指は、自分の指より、熱かった。
それが最初の印象だった。
肌に触れる掌の熱が、触れられた場所から遅れて広がる。熱は滲むように広がり、イサンの不健康な白い肌は、熱と血流と、羞恥という不可解な生理によって、絶えず点描のように色を移ろわせる。鎖骨下に落ちた口づけが、視認できないはずの背中の産毛まで逆立てているようだった。
「……力、抜いてください。怖くないですから、ね?」
「む……理あり……」
「ふふ。素直」
ホンルの手は、素材を検める手のままだった。
丁寧で、正確で、性急さの欠片もない。ただ、検分の時と決定的に違うのは、その手が髪ではなく、イサンの素肌に触れていること。
うなじ、肩甲骨、背骨の一つ一つ――まるで人体の設計を確かめるように辿る指が、時折、設計と無関係な場所で、理由なく長く留まる。
「観察を、続けたければ、どうぞ」
イサンがその所作をじっと見ているのに気づき、ホンルは笑いを含んだ声で言う。
「……ただ、途中から、それどころじゃなくなると思いますけど」
「っ!」
ホンルの指が、不意にイサンの薄い胸の頂をかすめた。指の腹で押し潰し、爪の先で軽く引っ掻き、円を描くように撫でる。そのたびに、イサンの身体は小さく跳ねて、その反応に気をよくしたのかホンルの手は執拗にそこばかりを責める。
「……ん……っ」
イサンは、咄嗟に手で口を塞いだ。
「声、聞かせてほしいです」
「む……っ、は……」
「ね? イサンさん」
ホンルが右手で、イサンの手を取り払い、口をこじ開けるように中指を突っ込んだ。関節が犬歯に触れ、口蓋に指先が当たる。
イサンは背筋に走る奇妙な感覚を堪えようと目を瞑った。
「……ん、ふ……っ!」
やがて口淫のような水音を立てて解放された指は、唾液を纏って糸を引く。ホンルが、イサンのシャツを肩から落とした。
「――綺麗」
露わになったイサンの上半身は、確かに美しかった。
皮膚の下を走る青黒い血管と、それを覆う薄い筋肉の筋と、骨の形が、その肌の上に陰影となって浮き出ている。
ホンルはそこにも口づけを落とした。首の付け根に、鎖骨に、胸に、腹に――そして、下腹まで下りたところで、イサンの身体が大きく震えた。
「……ふふ」
ホンルの人差し指が、イサン自身の昂りに触れる。その意図を察して、イサンは咄嗟に身を捩る。
「逃げないで」
「ん……っ!」
抵抗もままならず、ズボンを下着ごと取り払われた。
「あ、……っ!」
ホンルが何をしようとしているのかは、イサンにも理解できた。イサンのその部分は、すでに兆していたからだ。
しかし、他人の目に晒したことは一度もないそこを、ホンルにじっと見られてイサンは顔を紅潮させる。
「あ……ぁ……」
羞恥に震える声に、ホンルは悪戯を思いついた子どものような笑みを浮かべる。昂りを義手で包み込むと、ひやりとした冷たさにびくりとイサンの腰が跳ねた。
「……ん! んん……!」
手の中でそれは脈打ち、先端から蜜を零す。ホンルの手は滑らかに動き、やがてその動きはより速くなり、イサンの限界を促す。
「んん! ふ……っ!」
ホンルが促すまでもなく、あっけなく精を放った。熱を持った呼吸の音が、しばらく部屋の中に響いていた。
「イサンさん」
イサンは、羞恥に顔を背ける。
ホンルはそんなイサンの首筋に口づけを落としながら、掌に受け止めた蜜を後孔へ塗りつける。
「……っ!」
イサンが驚きに目を見開き、ホンルを見る。その視線の意味を理解しながらも、ホンルは素知らぬ顔で続ける。
「力、抜いてください?」
「――ぁ、ほん、るく……」
ともすれば、童のような、怖れを含んだ声色に、ホンルは愉しそうに口元に弧を描いた。
「大丈夫。痛くはしませんから。ちゃんと、気持ちよくして差し上げます」
ホンルの指は、ゆっくりとイサンの中に侵入した。
「……っ!」
「息を吐いて……そう……」
異物感に、イサンの体が強張る。ホンルは慎重に中を探るように指を動かし、固く閉じた蕾を丹念に、あるいは執拗に解す。
「は……あ、……ぁ……」
「痛みはなさそうですね? ふふ、じっくり――ああ、いや。ゆっくり、慣していきますから」
「は……、ん……っ」
ホンルが指を引き抜くと、イサンの唇から切なげな声が漏れた。
「もう一本、入れますね」
「……っ!」
再び侵入してきた指の感触にイサンは息を詰めたが、今度はさほど抵抗もなく受け入れた。ホンルは二本の指で中を探り、やがてその一点を捉える。
「ひ、……っ⁉」
「ああ、ここですね?」
ホンルの指がそこを重点的に攻めると、イサンは堪えきれない嬌声を上げて身悶えた。その反応に、ホンルの昂りが熱を帯びる。
「あ……ぁ、ほん、るく……、此は、いかで……っ?」
未知の感覚に疑問符を浮かべるイサンに、ホンルは熱に浮かされたような笑みで答える。
「大丈夫ですよ。そのまま僕に、身を委ねて」
「は……っ、あ、あぁ……!」
イサンの昂りが精を放つと、ホンルはゆっくりと指を引き抜いた。
「……もう一本、入れますね?」
「ま……っ!」
イサンが制止するより早く、ホンルの指は中へと侵入した。三本の指で押し広げるように中を探ると、イサンはびくりと腰を小さく跳ねさせた。
その一点を再び責めると、イサンが腰を浮かせ快感に噎ぶ。
「ひっ! あ……ぁ!」
ホンルの指は執拗にしこりを苛め抜き、イサンを絶頂へ追い立てた。
「ここ、ちゃんと覚えてください。前立腺、と言って――……ふふ、すみません。それどころではなさそうですね」
「は……っ、ぁ、あ……」
イサンの昂りからはもう蜜が零れるばかりになってはいたが、ホンルの指が不意にそこから離れると、名残惜しそうに腰が浮いた。
「……そろそろいいか」
ホンルは身を起こし、自分の下衣をくつろげる。その下から現れた昂りに、イサンは思わず息を呑んだ。
「……さあ、ゆっくり息を吐いて」
ホンルの陰茎の先端が、丹念に解された蕾にあてがわれる。本能的に身体が強張ったものの、ホンルの囁くような言葉に、イサンは体から力を抜いた。ホンルの手が、宥めるように頰に触れる。
「そう……上手ですよ……」
「んっ……!」
先端が押し入る感覚に、イサンは眉を顰めて声を漏らす。その反応に、ホンルは愛おしそうに目を細めた。
「痛いですか?」
「ん……っ!」
ゆっくりと侵入してくる質量に、イサンの眉根が寄せたものの、小さく横に首を振った。
「良かった。イサンさん――ちゃんと呼吸をして……」
「……ん……っ」
ホンルの声に促されて深く呼吸を繰り返すうちに、身体の強張りが少しずつ解ける。同時に、ホンルの先端がイサンの奥に届いた。
「――入りましたよ」
「は……ぁ……」
ホンルの顔に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら微笑むと、イサンも小さく応えるように息を吐く。
まだ異物感の方が強いのか、表情は硬いものの、その瞳は情欲を滲ませていた。
「少し、動かしますね」
ホンルがゆっくりと腰を引くと、イサンの唇から切なげな声が零れる。
「……ん……っ」
再び陰茎を、前立腺を押しつぶすように動かすと、イサンの口からは甘い声が漏れた。そのまま抽送を繰り返すうちに、イサンの声に艶が増していく。
「あ……ぁ! ほん……るく……!」
「ふふ――可愛い」
「ん……っ」
ホンルがイサンの唇に口づける。舌を絡め、歯列をなぞり、口腔内を蹂躙するように貪る。
「あふ……んん、ぁ……!」
ホンルの昂りが、イサンの中で質量を増した。イサンの昂りに指を絡めて擦り上げると、中がきゅうっとホンルを締め付ける。
その刺激に耐え兼ねたホンルが唇を離すと、二人の唇の間に唾液の糸が伸び、やがてぷつりと切れた。
「イサンさん、そろそろ……」
「ん……っ」
ホンルが腰を動かすと、その先端はイサンの最奥を突いた。その瞬間に中が一際強く締まり、ホンルは小さく息を詰める。
「……くっ!」
「あ……! あ、あぁ……!」
ホンルの昂りから吐き出された熱を感じてか、同時にイサンも達し、二人の腹を白濁液で汚した。
「ぁ、ふ、ぅ――っ」
イサンは肩で息をしながら、後引く快楽の余韻に身体を震わせる。
「イサンさん、大丈夫ですか?」
「……は……っ」
ホンルが汗で張り付いた前髪を梳くと、その刺激にすら感じ入ったように小さく声を漏らした。
ホンルはイサンの下腹部に指を滑らせる。まだホンルの陰茎を咥え込んだままのそこを軽く押し込めると、イサンは「ん……っ」と鼻にかかった声を漏らした。
「……まだ、いけそうですね?」
ホンルが微笑むと、イサンは羞恥に顔を背ける。その反応に小さく笑いを漏らすと、ホンルはまたゆっくりと腰を動かし始めた。
「あ……ぁ……」
「今度は、一緒にいってみましょうか」
そう言って微笑むホンルを、イサンは蕩けきった表情で受け入れるのだった。
◇
どれほどの時間が経ったのか、ランプの油は、目に見えて減っていた。
「――イサンさん。目、開けてください」
いつの間にか、目を閉じていたらしい。
開けると、間近に翡翠があった。汗で藍の髪を貼りつかせたホンルが、ひどく満足そうに、こちらを覗き込んでいた。
「ご感想は?」
「……あまりにも、騒々し。正常なる思考もできず、故に言葉にすること能わず」
「ふふ、それは残念」
「……再観察を、要す」
イサンの言葉に、ホンルは一瞬目を丸くして、それから、声を上げて笑った。笑いの振動が、重なった肌から直接、イサンの胸へ伝わった。
明け方近く、ホンルが寝入った後、イサンは寝台を抜け出して覚え書き帳を開いた。先ほどの体験について、書けることを書こうとして、筆は長いこと、紙の上で止まっていた。
結局、帳面には何も記されないまま、ペン先が押し当てられただけの、いびつなインクの染みが一点、残された。
(3)伽藍の籠
『伽藍の籠』と題された骨の鳥籠が公開されたのは、ホンルがイサンと契約を交わしてから五ヶ月が過ぎた頃だった。
身体派の中央展示室。青白い照明の真下に、それは据えられた。
三十二本の肋骨は、垂直の格子として天へ弧を描き、頂点で組み合わさって、高さ一メートル半ほどの籠を成している。格子の間隔は絶妙に調整され、観覧客はどの角度から見ても、美しく配置された鳥籠を目にすることができる。
何もない、ということが、これほど雄弁な作品を、ホンルは初めて作った。
籠の扉は、ある。ホンル自身の浮遊肋二本を蝶番として、確かに扉は形作られた。。だが、把手はなく、錠もなく、そもそも扉は骨の癒着処理によって、永遠に開かないよう封じられていた。守るべきものは何もいないのに、閉じ続ける籠。
公開初日、展示室は静まり返った。
薬指の連中は、饒舌な作品にはすぐ騒ぐ。黙るのは、作品に呑まれた時だけだ。
「……これは、参ったな」
最初に口を開いたのは、野獣派の年嵩のマエストロだった。
「檻なら、儂も何百と作った。獣を入れるための檻を。だがこれは……、入れられていた存在が、檻を置いて出て行った後だ。いや、違うな。最初から、何も入っておらんかったのか――?」
「さあ。どちらに視えました?」
「……儂には、空になった後に視えた。だから胸糞が悪い。褒めとるんだ、これは」
評は、割れた。
最初から空だったと視る者と、空にされた後だと視る者。籠の内側に立ちたいという者と、絶対に入りたくないという者。議論は展示室で三日続き、評価は絶賛へ収束していった。ドーセント・ホンルの最高傑作。身体派、久々の大作。骨格芸術の再定義。
点描派の、例の女ドーセントも来た。
彼女は籠の周りを三周し、それから、ホンルにだけ聞こえる声で言った。
「良い作品ね。癪だけど。……あの子の影響かしら」
「さあ。素材は全て身体派の流儀ですよ」
「素材の話はしていないの」
彼女は籠の格子の一点を、扇の先で示した。開かない扉の、開かない蝶番を。
「貴方、以前はこういう『閉じ方』をしなかった。貴方の作品は、いつも開きっぱなしだった。臓物も、技法も、感情の在処も、全部開いて、全部見せて、『どうです、綺麗でしょう?』と笑う。それが身体派のドーセント・ホンルだった。……閉じることを覚えたのね。誰にも見せない場所を、作品の秘めておくことを」
ホンルは、答えなかった。本来なら、作品に込めた感情、想念というものは、観覧客に伝わるように表現するべき――否、表現したくなるものだ。なぜなら、何も伝わってこない芸術は、感情を動かされない作品は等しく駄作であるから。だが、其れを忌避し続けても挑戦的な作品は作れない。次の段階には、絶対に上がれない。
あえて答えなかったホンルの態度を、彼女は満足そうに受け取め、去っていった。
閉まる直前の展示室に、最後の観覧客が来た。ホンルが招待した、唯一のスチューデント――イサン。
イサンは籠の前に立ち、例によって眉一つ動かさず、長いこと眺めた。ホンルは少し離れた壁際で、腕を組んでそれを待った。緊張している自分に気づいて、内心で苦笑した。満場の絶賛より、この寡黙な男の百二十秒の方が、よっぽど重い。
やがて、イサンは言った。
「……素晴らしき作品なり」
「ふふ。厳しいですね、A+とは言ってくれない」
「……スチューデントである私が評価を行うなど烏滸がましきことなれば――」
イサンは籠から目を離さないまま、そう言った。
「そんなこと僕は気にしないのに。貴方からの評を、是非聞かせてください」
イサンは困ったように少し目を伏せ、静かに切り出した。
「――虚言につける評ならば、持ち合わせたり」
「……噓?」
「ホンル君は『伽藍の籠』と題せしが、私は、これは伽藍ではなきと見たり」
「なるほど。表題に偽りあり、と」
「観覧客には空と視えるべし。九分九厘の目には、何も入っておらぬと。されど、私は知る。この扉の蝶番、そなた自身の肋なり。作者の骨が、開かぬ扉を支うる位置に据えられたり。――即ち、この籠に入りしものは一つ。籠の一部となる形にて、未だ内に在り。籠は伽藍に非ず。主は籠を出られぬまま、籠に成り果てたるなり」
展示室の青白い照明が、ぶぅん、と微かに唸った。
ホンルは自分の顔から、いつもの笑みが剝がれ落ちているのを感じた。取り繕おうとして、頬の筋肉が一拍遅れた。その一拍を、イサンは見なかった。見ないでいてくれた、のかもしれなかった。
「……参りましたね」
ようやく出た声は、少し掠れていた。
「その評、他では言わないでくださいね。せっかくの絶賛が、台無しになる」
「言わず。観察と取引の相手の手の内、他所に漏らすは信義に悖れば」
「信義、ですか。ふふ……ええ、そうですね。信義です」
二人は並んで、開かない扉を眺めた。
鴻園を出た日のことを、ホンルは不意に思い出していた。コン家の惨劇を目にして、生まれて初めて「よろこび」に頬が熱くなった日。あの日、確かに自分は籠を出たはずだった。殻を破ったような気さえした。「御老人方」の娯楽のために鴻園を出た後、裏路地へ下りて、薬指に入って、自由に素材を刻む幸福な日々を得た。
家族への未練など、一欠片もない。あの鳥籠を思い出して痛むような柔い臓器は、とうに作品に使ってしまった。
そのはずなのに、ホンルの最高傑作は、いまだに自分が鴻園から出られていないこと表している。
そして、そのことを視た人間は、目の前の、ただ一人だけだった。
「イサンさん」
「む」
「今夜、検分を。……髪が、伸びたでしょう」
「三日前に検分せしばかりなり」
「ええ。でも、三日分、伸びたでしょう」
イサンは、ホンルの顔をしばらく眺めた。それから、ふ、と息だけで笑った。この男が笑うのを、ホンルはこの時、初めて見た。
「――然り。三日分、伸びたり」
その夜の検分は、長かった。
鎖骨を過ぎた黒髪を、ホンルは時間をかけて梳いた。一年半の、まだ三分の一にも満たない長さ。義体でない方の指に絡めては、ほどく。絡めては、ほどく。
「詩を、一つ思い出しました」
脈絡なく、ホンルはそう口を開いた。
「『脈ごとに青みがぽたりと滴り落ちれば、筋ごとに温かな赤の滲み出でん』――静脈と動脈の対比を吟じたものです。あの手記を残した、昔の身体派マエストロが書き残していたのを思い出して」
「……青と赤。――身体派のマエストロ様にしては、点描派のような表現なり」
「ええ。僕も最初はそう思いました。でも、あなたと一緒にこうやって過ごしていると、少し考えが変わりました。結局、同じことをしてるんですよ、僕たちは。派閥なんて、道具(アプローチ)の違いでしかない」
髪をひと房、持ち上げる。燈下でも沈み続ける漆黒。指の間から零れ落ちる、育ちつつある一年半。
このところ、ホンルは検分の時間に、別の意味を見出しつつあった。素材の育成確認――それは事実だが、全てではない。梳いた髪が指を離れる時の、あの微かな名残の感触を、彼は素材への期待とは呼べずにいた。
呼べないものには、名を付けなければいい。
開かない扉の内側に置いておけば、誰にも視えない。
―― ただ一人を除いて、誰にも。
「ホンル君。手、止まりたり」
「……ええ。少し、考え事をしていました」
◇
六ヶ月目――薬指は珍しく作品製作とは別の喧噪に包まれていた。
『廊下』という空間技術を持つ薬指では、温度や湿度は作品製作のために完璧に整えられている。……はずではあったが、運悪く、スチューデント達のアトリエや一部のドーセントにあてがわれた空間の空調が故障してしまったのだ。建物は昼の熱を溜め込み、夜になっても吐き出し続ける。防腐剤は揮発しやすくなり、身体派の工房は換気と材料の避難に追われ、点描派のアトリエでは、絵具の乾く速度が変わると若い連中が騒いでいた。
「――というわけで、避難してきました」
ホンルは、イサンのアトリエの扉口で、涼しげに笑った。片手に、酒壜と杯が二つ。
「私の部屋も惨憺たる状況なり。ドーセント様の部屋には影響なしと聞きしが?」
「僕のアトリエは無事だったんですけど……その代わり他の身体派の素材や薬品の避難場所にされちゃって。他人の素材と寝るなんて、そんなことできないでしょう?」
「……ここも、暑し」
「ええ。だから、一緒に別の場所に行きましょう」
ホンルに連れられて廊下へと出る。たくさんの扉でひしめき合うその空間を、ホンルは迷いなく進んでいく。
イサンは通ったことのない道、開けたことのない扉を物珍しそうに眺めた。
酒器を持っているホンルの代わりに、扉を開く。そこはどこかの建物の屋上だった。屋上は物干し綱と貯水槽のほかに何もなかったが、それなりに高い場所にあるのか、夜景が、足元から地平まで、敷き詰められていた。
「…………」
イサンは、手すりの前で、立ち尽くした。
無数の光。窓の黄。街灯の白。看板の赤。工場地帯の、青みがかった水銀の光。裏路地の細い明かりは、こぼれた砂金のようだった。
それら全てが、明滅し、揺らぎ、濃淡を作って、夜という一枚の巨大な地の上に、打たれていた。
「点、なり」
ようやく、それだけ言った。
「ええ。大きな点描画です。……あなたに、一度見せたかったんですよ。ここ、どこかわかりますか」
イサンは首を横に振る。
「まあ、夜ですしね。ここはH社の巣、その中心の大観園の一角です。暗いですけど、その分、人間の熾す明かりがよく見えます」
ホンルは手すりに凭れ、杯に酒を注いだ。
「実のところ、僕はあんまりここには来ないんですけどね。空が見えませんから、時間の経過がわかりづらいんです」
ホンルの言葉に、イサンは頭上を見上げた。そこで初めて、この一帯が巨大な箱に覆われていることに気づく。H社――鴻園生命工学グループ。そして、ホンルの生家でもある。
考え込み始めたイサンを一瞥して、ホンルは唄うように言葉を続けた。
「僕は、深夜と明け方が好きなんです。芸術家にとっては黄金のような時間だと思いませんか? まるで神の啓示みたいに、この時間になると着想が尽きなくなる。例えば、見飽きたこの景色。光の連なりが太い血管の脈動のように感じられて、伸びた毛細血管とそれを支える構造物たち、無数の星のようにも思えてくるんです」
「血管、と視るか。あの光を」
「僕は身体派ですからね。あなたは点と視る。同じ夜景で、二枚、違う絵が描ける。効率がいいでしょう?」
イサンは杯を受け取り、一口だけ含んだ。強い酒に、イサンの眉間に皺が寄る。喉の奥が灼けつくようだ。
しばらく、二人とも黙って、都市を見ていた。
夜風が、伸びかけの髪を項から浮かせた。もう肩に触れる長さだ。結ぶことを覚えないと制作に障る、と思い始めた頃だった。風に流されるままにしておくと、視界の端で黒い筋が揺れているが、不思議と目障りではなかった。
「僕も昔のマエストロを真似て、詩を作ってみたんです。聞いてくれますか?」
ホンルが、杯を見つめたまま言った。イサンが頷くと、ホンルは杯を煽って、大仰に両手を広げてみせる。
「灯りのひとつひとつに、骨がある。窓のひとつひとつに、脈がある。都市は今夜も標本にされることを知らず、瞬きながら、生きている」
「……ふむ」
「評価は?」
「前半二句、良し。『標本にされることを知らず』――ここに、ホンル君らしい表現あり。されど結句、『生きている』は、過分なり」
「過分、ですか」
「生きていることは、前の三句が既に証したり。結句にて重ねて言うは、観覧客を信じておらぬ証拠なり。……絵で言わば、影を描き終えたる後、『これは影なり』と注記するがごとし」
ホンルは、目を丸くして、それから、長いこと笑った。
「あはは、手厳しい! 手厳しいなあ、うちの共同研究者は。……でも、その通りですね。三句で止める勇気を、僕はまだ、詩では持てていないんですね。自分の作品ではちゃんとできたのに」
「分野の違いにあらず。素材の違いなり」
「素材?」とホンルは首を傾げた。
「造形の素材――すなわち人体を、そなたは完全に支配せり。ゆえに、何を素材の取捨選択にも熟達せり。去れど、詩の素材は言葉なれば。言葉は……言葉は、支配しきれぬ素材なり。支配しきれぬ故、意図せずまろびでることもあらん」
イサンは、ホンルにそう言いながらも、それが自分にも言えることだと、内心で自嘲した。ならば、この半年、逢瀬のたびに増えていく自分の口数は、何の証左になるのだろう、と。
「ふうん。イサンさんは本当に物知りですね」
ホンルは、幸い、詩の話として受け取ったようだった。杯を煽って、それから、ぽつりと言った。
「イサンさん。僕は今夜のこと、忘れないと思います」
酒壜を傾けて、空になった杯を再び満たす。
「貴方と見たこの夜景と、貴方の言葉を。……着想って、そういうものでしょう。薬指の人間は数多の夜を芸術に捧げますけど、作品の中に昇華されるのは一握りの夜だけですから。だから、こういう素敵な夜は、なるべく丁寧に、過ごしておくんです」
貯水槽の陰で、虫が一匹、短く鳴いた。名も知らぬ虫の声が妙に耳に付いた。
イサンは、杯の底の火を飲み干して、手すりに頬杖をついた。
「……然らば、私も丁寧に過ごすべし」
半刻は、一刻になり、一刻半と長引いていった。
話題は、途切れ途切れに続いた。点描派の兄弟子の癖。身体派の古文書の誤訳。九人会という語が一度だけ出て、深追いされずに流れた。鴻園という語も一度だけ出て、同じように流れた。互いの過去は、まだ、燈を近づけない場所に置いてあった。二人の間にはそんな過去の話は些末なことで触れる必要性すらもないのかもしれない。
明け方近く、東の空が灰色に薄まり始めた頃、二人は屋上を降りた。
階段の途中で、ホンルが言った。
「そういえば、忘れてました。検分を」
薄明の中で、ホンルはイサンの髪をひと房、指に取った。夜風に一晩さらされた髪は、少し乾いていて、わずかに重くなっていた。
「……うん。今夜も、ちゃんと綺麗に伸びてますね」
それだけ言って、指は離れた。
十秒にも満たない――検分と言うには極めて短い時間だった。まるで、恋人同士の逢瀬の終わりのような。
◇
七ヶ月半ばを過ぎたころ。イサンはひとつの作品を提出した。いくらホンルとの共同研究に打ち込んでいても、作品の締め切りが免除されるわけではない。マエストロからの課題として制作した絵だ。課された課題は百二十号のキャンパスで絵を描くこと。本来ならば風景画に使うような大型のサイズで、其れを点描にて描くとなると、かなり骨が折れる。
周りのスチューデント達がキャンパスを埋め切れず頭を抱えたり、あるいは余白こそが芸術だなどと楽をしたいがために都合の良い芸術論を叫びだし始めたりと混乱を極める中、イサンは黙々と作品を作り上げていった。
表題は、『霧』。
画面の全てが、灰白の点で埋められていた。近づけば点、離れれば霧。ただそれだけの絵に視える。実際、スチューデントの同輩たちの評は「技巧は認めるが、『剥製』からの後退」というものが多かった。翼という強烈な図像を捨てて、一見何も描かれていない霧を選んだことが、彼らには停滞と映ったらしい。
しかし、審査に立ったマエストロとドーセントたちの評価は違うものだった。
霧の点は灰白であるように見えて、すべてわずかに色が違う。キャンバスの中央に向かうほど、少しずつ、彩度を失っていく。これは、『剥製』でも見られた技法だ。しかし、『剥製』とは異なる部分があった。中央の一点――そこだけ、点が打たれていない。地のキャンバスの布目が、指の先ほどの大きさで、剝き出しのまま残されている。
霧のどこを視ても、視線は最後、その空白に吸い込まれるように設計されていた。
何も描かれていない場所が、絵の全てを支配している。
「これは……霧を描いた絵ではないな。霧の中で、唯一霧でなかったものの、あるべきものの不在を描いた絵だ」
課題を出したマエストロはそう評し、『霧』は満場一致でAを得て、点描派のギャラリーの、『剥製』の隣に掛けられることが決まった。
その夜、イサンは久しぶりに、夢を見た。
霧の夢だった。
舌の根に、あの薬の苦味がある。手足は水底のように重く、思考は筆洗バケツの色水のように薄められ、形を持たない。
目の前にクボの顔があって、何かを言っている。翼の話だ。新九人会の話。イサンのための場所がある。お前がまたはばたくための場所。優しい声で、優しい言葉で、優しく、優しく、緩慢に栓を緩めるように、イサンの中身を抜いていく。
抵抗しなければ、と思う。思うのに、思うそばから、その思いが霧に溶ける。
どれだけ叫んでも声にならず、どれだけ歩いても部屋の中で、窓は塞がれ、時間だけが薬の周期で刻まれて……。――
――目を、覚ませ。
夢の中で、声がした。
鏡の中からだった。塞がれた部屋の、唯一の鏡。そこに立つ自分が、自分ではない目でこちらを見ていた。サンイ。鏡世界の、もう一人の。左利き。
――その翼は、おまえの本当の翼じゃない。目を覚ませ。歩け。飛べないなら、歩いて逃げろ。
イサンは、跳ね起きた。
アトリエの暗闇。絵具の匂い。恒温槽の低い駆動音。ここは薬指で、クボはいない。舌の根の苦味は、幻の残滓だ。
呼吸を数えて整えながら、イサンは寝台の縁に座り直した。
汗が、伸びた髪を項に貼りつかせている。その重みで、我に返った。切っていない髪。育てている髪。契約の髪。この重みは、あの霧の日々には存在しなかったものだ。だから、これは現実だ。
「……失笑せしほど、愚かなり」
声に出して、確かめる。
九人会の日々。翼を信じた日々。何の価値もない暗闇の日々。思考停止した霧の中のような、笑えるほど愚かな日々。技術開発に明け暮れていた、子供じみた未熟な自分。全て点に還元して、殺して、標本にして、額に入れて、壁に掛けた。処理は完了している。完了しているから、A+が付いたのだ。
なのに、夢は時折、額の中から漏れ出してくる。
こんな夜、以前のイサンは、夜明けまで点を打った。点を打っている間だけは、雑念も、記憶も、すっかりと消え失せるからだ。
しかし、イサンの足は、キャンパスが掛けられたイーゼルではなく、自室の扉へと向かっていた。
――身体派の居住区は、相変わらず薬臭い。
すっかり見慣れた部屋の扉を叩くと、部屋の主――ホンルは当然のように起きていて、深夜の来訪者に嫌な顔一つしなかった。
「おや。検分の予定は、明後日では――」
言いかけて、ホンルはイサンの顔を見る。それから、何も言わずに扉を大きく開けた。
部屋に入っても、イサンは話さなかった。ホンルも来訪の理由を訊くこともなく、部屋の椅子にイサンを座らせる。
そのまま、作業台に戻って作品製作を再開した。誰かの指骨を組んだ、掌に載るくらいの大きさの塔。この前の大型の籠とは違い、非常に小型の、細かい作業を要求される作品だ。
イサンは、その作業をただ茫と眺めていた。
義体の指と生身の指が、交互に骨を摘まみ、据え、調整する。狂いのない手つき。青白い照明。防腐剤の匂い。こつ、という骨と骨の触れる小さな音は、点を打つ音に、少しだけ似ていた。
一時間ほどが過ぎた頃、ホンルが、手を止めずに言った。
「僕はね、鴻園でたくさんの人の死を見ていました」
脈絡のない、独り言のような声色。
「……そのたびに、変だと思ったんです。生きている人間より、死を前にした人間の方が、よっぽど正直に視えました。ずっと顔に貼りついてた、気持ちの悪い笑顔が剝がれて落ちてたから」
「……」
「ああ、人間は死ぬと嘘が剝がれるんだな~って。……もっとも、その感想を口に出したら、乳母が顔を真っ青にしましてね。以来、感想は胸に仕舞う子供になりました。ふふ」
こつ、と指骨が積まれる。
「コン家が滅んだ夜のことは、前に話しましたっけ。夫人の腹を破って怪物が生まれて、皆が次々に殺されていくのを、僕はずっと見ていました。……あの夜、生まれて初めて、頬が熱くなったんです。歓喜で。血の海の中で、あそこにいた全員が、嘘のない顔をしていた。僕はあれより美しいものを、まだ見たことがありません」
イサンは、黙って聞いていた。
慰めではなかった。励ましでも、詮索でもなかった。
ホンルはただ、自分の昔話をしている。
骨を積む音の合間に、扉を内側から数センチだけ、開けてみせていた。
まるで、貴方の番ですよ、と促されているかのように、イサンは自然と口を開いていた。
「……ホンル君」
「はい」
「私は、夢を見き」
「ええ」
「霧の夢なり。……薬の。N社の。クボの」
こつ、と音がして、それきりホンルの手は止まった。急かさない沈黙が、部屋に満ちた。
イサンは、ぽつぽつ、ととりとめもなく霧のような頭の中を言葉にして吐き出していた。
九人会のこと。翼を信じたこと。崩壊のこと。クボに連れられ、N社の一室で、思考を鈍らせる薬を、来る日も来る日も投与されたこと。抵抗の意志ごと薄められて、完全に翼を捥がれ、部屋の隅で緩慢に溶けていたこと。鏡の中のサンイの声で、辛うじて足を動かしたこと。
語る声は、自分でも呆れるほど平坦だった。とうに標本にした過去だ。今更、声が震える道理はない。
――道理は、ないのだが。
語り終えた後、イサンは自分の右手を見下ろした。そこで初めて、自分が右手に筆を握りしめていたことに気づいた。
「……妙なり。処理は、とうに完了せり。何故――」
「イサンさん」
ホンルの声は、静かだった。
「過去の記憶が疼くのは、処理が失敗したからじゃありませんよ。記憶は優秀な素材です。どんな扱いをしても、なくならない。だから、貴方はまたその記憶を使って作品を作れるんです。素晴らしいと思いませんか?」
「……記憶が素材――」
「ええ。だから、利用するんです。何度でも、再利用(リサイクル)してあげればいいんですよ」
過去の疵を癒すでも、忘れるでもなく。
その語彙の選び方が、この夜のイサンには、どんな慰藉よりも正確に届いた。
確かに『剥製』も『霧』も、自身の記憶から着想したものだ。
記憶を、素材として、……着想を得る手段として使い潰す。それはなんと、合理的なことか。
「……理あり」
震えは、いつの間にか、止んでいた。
「実に……理あり。ふ……ふふ」
「あ、やっと笑ってくれましたね」
ホンルに指摘されて、イサンはきゅっと口元を引き結び、口元を隠すように俯いた。
「誤魔化すんですか? 絶対、笑いましたよね?」
ホンルはイサンの顔をむんずと両手で包み込んで、頬をやわやわと揉んだ。義体の左手の方は冷たくて、右手の方はほのかな熱がある。
「なんと、不可思議な心地す――」
言葉尻が消えたかと思うと、イサンはゆるりと瞼を下ろし、うつらうつらとし始めた。ふふ、というホンルの微かな笑声を聞きながら、イサンは眠りに落ちた。
◇
薬指の縄張りである裏路地に、人身密売組織が根を張った。どこかの指の末端組織のようだが、いつもの仕事とは事情が異なる。単なる縄張り荒らしなら数名のドーセントやスチューデントで事足りるが、連中は薬指の構成員を三人攫い、「素材」として売り捌こうとしている。指の面子に関わる案件として、ドーセント四名、スチューデント八名。派閥は混成の大所帯で実地演習を行うこととなった。
名簿を見たホンルは、点描派のスチューデントの欄に、その名を見つけて口元を緩めた。
演習は、夜半に始まった。
裏路地の廃工場に立て籠もった敵は、四十人余り。武装は火器が中心で、芸術とは無縁の、実に散文的な連中だった。
ホンルの得物は、肉と骨で編んだ長鞭である。何人分かの脊椎を連結し、腱で繋いだそれは、ホンルの義手と接続され、神経信号に呼応して、生き物のように撓る。
「みなさぁん、今夜は素敵な実演の夜ですよ」
工場の正面扉を蹴り開けて、ホンルは歌うように言った。
「キッチュから、アヴァンギャルドまで。何ひとつ取りこぼしのないように、僕が直々にキュレーションして差し上げますよ」
銃声が答えた。ホンルは笑って、鞭を振るった。
戦闘というものを、薬指では実演や実地授業などと呼称する。素材の調達と、技法の試験と、観客への奉仕が同時に行える、効率の良い時間だからだ。脊椎の鞭が梁を巻いて彼の身体を宙へ運び、着地点で二人の男の膝関節が、彼の望んだ角度に折れる。
一方、それと対をなすように、工場の反対側では、点が打たれていた。
イサンの長筆が閃くたび、速乾性の顔料が男たちの視界を奪い、返す柄が骨を砕く。彼の戦い方には、無駄な動きが一つもなかった。全ての一撃が、キャンバスに打たれる一点のように、置かれるべき場所に置かれていく。
ホンルは、戦いながらそれを見て――美しい、と思った。
観客のほとんどは、ただの手際の良い制圧としか視ないだろうが、本質は違う。彼は今、まさにデッサンをしている。生と死の境目という、一瞬しか存在しない色を、目に焼き付けては、次の一撃で新しい色を作っている。
敵の首魁は、工場の最奥にいた。
攫われた構成員三人は、既に「加工」が始められていた。かろうじて息があるのは一人だけで、残る二人は、素材としても作品としても中途半端な、ただ惨いだけの状態で吊られていた。唯一まだ生きている彼も、もう長くはないだろう。
金で雇われた彫師崩れが、震える手で刃物を構えて、喚いた。芸術がどうの、薬指のごときがどうの、と。ホンルは、その口上を最後まで聞かなかった。
鞭の一薙ぎ。
男の身体が壁まで飛び、続けて崩れた鉄骨が、その胸を貫いた。男は長い、長い声を上げた。
「あぁ……素晴らしい断末魔ですね」
ホンルはうっとりと呟き、それから、吊られた二人の同胞を見上げた。
彼らはもう助からない。ならば、せめて。
「――イサンさん。手伝ってもらえますか」
「……む、如何せりや?」
「この人たちを、作品にしましょう。この場で。……このままただの『被害者』として回収されるのは、彼らの来歴に対して、あまりに不名誉です」
イサンはただ筆を持ち直してこくりと頷いた。
「構図は」
「昇天図を。彼らはこれから、作品として昇華されます」
三十分後、廃工場の中央に、一つの作品が生まれた。
鉄骨と鎖で再構成した螺旋の上に、二人の亡骸は、苦悶の形から解き放たれ、上昇の途中の姿勢で組み直された。イサンの顔料が、螺旋の周囲の床に、影のように点描の翼を広げた。肉体は上へ、翼は床に置き去りに。翼を置いていくことで、初めて昇っていけるものの図。
回収に来た薬指の後続部隊は、工場に入るなり絶句し、それから、誰からともなく帽子を取った。
後にこの即興作品は『出立』と呼ばれ、身体派と点描派の共作として、しばらくの間、語り草になる。
◇
その夜、二人はホンルの部屋にいた。
戦闘の後の身体は、奇妙な状態になる。
生き延びた細胞の一つ一つが火照って、皮膚の内側で、まだ戦場の続きを騒いでいる。芸術家の手は、その騒ぎの行き先を求める。ある者は夜通し制作し、ある者は酒に身を沈め、ある者は――。
「――検分を」
先に言ったのは、ホンルだった。
湯を使ったばかりのイサンの髪は、重く湿って、肩甲骨の下まで届いていた。ホンルは寝台の縁に座るイサンの背後に膝をつき、いつものように梳き始める。
髪を梳く指が、髪越しに項の熱に触れる。
湿った黒髪を掻き分けて、うなじに口づけると、腕の中の身体が、微かに跳ねた。
「……検分の、範疇か。これは」
「ええ。素材の育つ土壌の、状態確認です」
「詭弁なり」
「ふふ。嫌ですか? つれないじゃないですか。先ほどまで、あんなに熱心に――」
「……続けたまえ」
イサンは、やけに機嫌の良いホンルに呆れ混じりにそう言い放つ。
ふ、とホンルが笑いを混ぜたに息を吐いて、イサンを寝台に横たえさせる。
ホンルは時間をかけて、イサンの身体の設計を確かめていった。義体ではない、彼自身の右手で。鎖骨の窪み。薄い胸。筆胼胝を作った指の、一本一本。そして何より、髪。
広げれば寝具の上に扇のように散る黒髪に、ホンルは幾度も指を潜らせた。掬い、絡め、口づけ、頬を寄せる。慈しむ、というにはあまりに俗物的な行為だった。
約束の日が来れば、この髪はホンルその人の手によって切られ、素材になる。
素材になれば――この検分にかこつけた行為をする理由がなくなる。
その考えが胸をよぎった瞬間、ホンルは自分でも思いがけない強さで、腕の中の身体を抱き込んでいた。
「……ホンル君?」
「……すみません。少し、だけ――」
イサンは何か言いかけて、やめる。代わりに、彼の手が、遠慮がちに、ホンルの藍がかった黒髪に触れた。梳き方を知らない指が、見様見真似で、ぎこちなく髪を梳いた。
ホンルは声を立てずに笑って、それから、長いこと、されるがままになっていた。
やがて、ホンルがやおら頭を傾けて、その首筋に口づけると、それを合図にするように、イサンの指が、止まる。
戦場の続きを騒いでいた皮膚の内側が、ようやく行き先を見つけて、静かに沸き立った。
首筋に吸い付いていた唇が、不意に熱い息を吹きかける。同時に、義体ではない右手の指が、襟元から忍び込み、脇腹をなぞる。羽織っていた上着が脱がされ、冷えた空気が肌を掠める。
ホンルは顔を上げ、イサンの唇に己のそれを重ねる。重なった唇の隙間から、イサンの息が零れ、すぐに吸い上げられた。角度を変えながら何度も啄み、舌を差し入れ、絡め取る。
「ん……」
濡れた音を立てて唇を離すと、銀色の糸が二人を繋いで、ぷつりと切れる。
矢継ぎ早に喉元に唇を這わせ、白い肌の上を滑るように舌でなぞり、鎖骨まで辿りつく。
ホンルはそのまま唇を鎖骨のくぼみに押し当て、舌先でくすぐりながら強く吸い上げた。
「っ……!」
イサンの肩が揺れ、唇から掠れた声が零れた。
ホンルはさらに唇を下へと移動させ、胸板の突起を舌先で押し潰すようにして転がした。イサンの肩がびくりと跳ね、吐息が乱れる。
「……ん、う――っ」
ホンルは口の中で乳嘴を吸い上げながら、右手を裾から潜り込ませ、平坦な胸郭を掌で包むように撫でた。指先が肋骨のラインをなぞり、下腹部へと降りていく。
その手付きはまるで、繊細な陶磁器の表面を傷つけまいとするようだったが、触れるところ触れるところから、じわりと熱が滲んでいく。布の内側で、指先が鼠径部を辿り、薄い茂みに触れる。イサンの指先が、微かに強張った。
「――ぁ……」
掠れた声と共に、イサンの腰がわずかに浮く。その反応に目を細め、ホンルは唇を離した。
「前と同じように、優しくしてあげますから」
ホンルは穏やかに告げ、再び身を沈めた。胸の尖端を舐め上げながら、もう一方を指先でそっと摘む。
「っ……!」
短い呼気が洩れ、イサンは両手でシーツを掴んだ。ホンルはそんな抵抗も気にせず、指で乳嘴を揉みしだき、舌で転がし、軽く歯を立てる。
そのたびに、抑えようとしても零れてしまう嬌声が、耳元で鼓膜を震わせた。
「あ……っ……!」
ビクッ、とイサンの全身が跳ねる。その反応に気をよくしたのか、ホンルの責めは更に激しさを増した。敏感な粒を唇で挟み込み、舌先で弾き、ちゅうっと吸い上げる。もう一方の手は肋骨の浮き沈みを確かめながら、身体の中心へと滑っていく。
「ひゃっ……」
イサンが声を上擦らせた。ホンルがイサンの勃ち上がりにそっと指を添えたのだ。
「あ、あ、ほん、るく……」
ホンルの掌が、すでに芯を持ち始めている昂りを包み、やわやわと上下に動く。
直接的な刺激に、イサンの口からたどたどしい、短い喘ぎが漏れた。
「ふ……ぁ…」
やがて手の動きに合わせて腰が揺れ始め、次第に大胆な動きへ変わっていく。
その様子を見て、ホンルの手の速度が上がる。
敏感な先端を撫でさすられ、とうとうイサンは熱を吐き出してしまった。
「――っ!」
吐き出された飛沫を受け止めながらも、ホンルはふ、と吐息を漏らした。珍しく余裕のなさそうな手際で自らの下衣をくつろげると、硬く兆した自身を露わにする。
枕元のチェストに手を伸ばし、香油の瓶を取り出すと、蓋を開けて掌に垂らした。
「ちょっと、取り寄せてみたんです。面白いかな、と思って」
粘度の高い液体を指に纏わせ、自らの陰茎とイサンのものにまとわりつかせていく。くちゅ、と淫靡な音が立つ。ホンルは二本の雄を合わせて握り込むと、互いの昂りを擦り合わせるように、ゆっくりと手を動かし始めた。
「ふぁ……ん、ぁ……」
二人の陰茎が重なって、擦れ合うたび、イサンの口から甘い吐息が漏れ出る。
「ぁ……!」
鈴口の割れ目に指の腹を押し当てられると、先端から透明な雫が溢れ出した。
香油と先走りが混ざり合い、ぬちゃぬちゃと湿った音が響く。
「あ……あぁ、ほんる……くん……っ」
イサンの声に切迫したものが混じり始め、白い肌の上で散っていた朱が濃くなる。限界が近い。
「あ……っ…あ――!」
「ん……っ!」
ホンルの手の中で二本の陰茎が脈打ち、ほぼ同時に果てた。先端から噴き出した白濁した液体が、互いの腹を汚す。
その温かい飛沫を肌で受け止めながら、イサンの口から掠れた声が漏れた。
「……は、はっ……!」
しかし、それで終わりではなかった。ホンルの手には香油と、今しがた二人が出したものが綯い交ぜになった粘液が垂れ、白い糸を引いている。
ホンルはその右手を、今度はイサンの後ろへと向かわせる。
先ほどの吐精でイサンの身体から力が抜けているのをいいことに、双丘を割り開き、慎ましい蕾を露出させる。
「しばし、待ち、たまえ……」
「待ちません――はあ、いや、違いますね――待てません……っ」
「――ひ、う゛っ!」
指先が後孔の縁に触れた瞬間、イサンの制止する声は、言葉にならない悲鳴へと変わる。香油を纏わせた指が、ゆっくりと挿入されていく。 異物感に全身を強張らせるイサンだったが、香油の潤滑とホンルの丁寧な動きのおかげで痛みは少ない。
「ん゛……!」
それでも、体内を侵蝕される感覚は慣れず、イサンの眉が寄る。
ホンルは慰めるように、イサンの額や頬に口づけを落とした。
「そう……ゆっくり息を吐いて――」
「ぅ゛……あ…っ!」
言われた通りに呼吸を繰り返すうちに、身体の緊張が少しずつ解けてきて、第二関節まで挿し込まれたホンルの指を根元まで迎え入れた。
その様子を確認すると、ホンルはゆっくりと指を動かし、前立腺を探り当てる。
「……ああ、ここでしたね」
「――ッア、ゔっ!」
唐突な衝撃に、イサンの口から悲鳴じみた声が上がる。ホンルの指が、前立腺を押し潰したのだ。先ほどまでとは全く違う種類の鋭い快感に貫かれ、身体が勝手に跳ね上がる。
「あ……や、ほんる……く…っ」
イサンの瞳に涙が滲む。ホンルは泣き濡れた顔をそっと撫でると、耳元に口を寄せた。
優しい仕草だが、指の動きは容赦がない。二本目の指を挿入すると、それぞれ異なるリズムで腸壁を擦り上げ、容赦なく弱点を抉ってくる。
「あ……っ、ああ――!」
内側から突き上げるような快楽の奔流に耐えかねて、イサンは涙を溢れさせながら身体を仰け反らせた。二本の指をぎゅっと締め付け、喉を晒す。
「……ん、柔らかくなってきましたね。もう一本、いけそうです」
「っ!」
ホンルの指が三本になり、再び内部を探り始める。
やがて三本の指がそれぞれ独立して動き始めると、イサンはとうとう理性を保つことができなくなった。
「ぁ、ああ……!」
嬌声が高く跳ね、イサンの腰がびくびくと痙攣する。触られてもいないのに、勃ち上がった屹立からとめどなく先走りが溢れ出す。
「あ、なら、ぬ、ぅ゛……っ!」
「でも、すごく気持ちよさそうですよ?」
「あ゛、あ゛ぁ!」
ホンルの指が動くたびに、びくびくと腰が震える。あまりの刺激に逃げ腰になるのを押さえつけて、さらに激しく掻き回すと、イサンは縋るようにホンルの腕を掴んだ。
「ほん、るく……も、我慢ならず……っ」
涙声で懇願するイサンに、ホンルは小さくため息を吐く。ここまで追い詰めたのは自分なのに、こんな顔を見せられるとどうしても優しくしてしまう。
「……ふふ」
ホンルは指を引き抜き、イサンの両足の間に割り入ると、自身の昂ぶりの先端を押し当てる。香油を塗りたくった亀頭が入り口をこじ開け、狭い隘路を押し拡げながら侵入していく。
指とは比べ物にならない圧迫感に、イサンの目が見開かれた。
「ぅ……く、ぅ……」
イサンが苦しげに呻き、額に汗が浮かぶ。ホンルは眉を寄せながらも、腰を進めていく。ゆっくり、ゆっくり――少しずつ、楔を打ち込んでいく。
「……っ!」
やがてすべて収めきると、ホンルはイサンの頬を撫でた。
「――全部、入りましたよ」
「ぅ……」
苦しげな息の下から、イサンがかすかに頷く。ホンルはしばしそのままでいたが、やがて少しずつ腰を動かし始めた。
「動きますね」
「ぅあ……ああ……っ!」
雁首まで引き抜いて、また奥まで貫く。浅いところと深いところを交互に突くたびに、イサンの身体がビクビクと跳ね、肉壁が絡みつくようにホンルの自身を締め付けてくる。
「あ、あ、……っ!」
ホンルが律動を刻むたびに、寝台が軋む音と、肌と肌がぶつかる乾いた音が、ねまっこく響いた。ホンルがイサンの前立腺を執拗に……轢きつぶすように、何度も何度も往復するたび、イサンの口から悲鳴にも似た嬌声が上がる。
「や……っ!あ、あ! 其処、ばかり……っ。……気が、狂ひぬべし……っ!」
「あは、いいじゃないですか。おかしくなりましょう? ね、一緒に」
ホンルはイサンの身体を抱き寄せ、より深いところを穿つ。同時に両胸の突起を摘み上げ、捻る。それだけでイサンは軽く達したらしく、ホンルを包む媚肉が激しく痙攣した。
「っ!」
「……締まりましたね」
ホンルは嬉しそうに目を細める。その表情を見て、イサンの胸にじわりと羞恥心が滲み出た。自分だけが翻弄されているようで面白くない。だが、そんな虚勢を張る余裕もなかった。
体を重ねるのは、もう何度目か。知らず知らずのうちに、イサンの身体はホンルを受け入れることに順応していた。先端を押し込まれ、わずかに押し戻されると、それだけで痺れるような快感が走る。
隘路を掻き分け、穿たれ、内側から押し広げられるたび、否応なく頭から指先に至るまで、悦楽に染まっていく。
「ぅ゛…はっ…ひ――ぃ゛っ!」
「イサンさん、可愛い声」
「ぁ、あ……! 縹渺、たる……声に、耳を貸すで、なぃ……っ」
「そうですか? 僕はもっと、聞いていたいですけど」
「ぅあ゛……っ!」
ホンルの陰茎が前立腺を抉る。途端に鮮烈な快感が迸り、イサンは弓なりに背を反らした。
「ふふ、ここ……好きですよね?」
「ひっ――」
ホンルが腰を退き、再び強く打ちつける。激しい抽送に合わせて、結合部から香油と体液が混じり合い、ぐちゅり、ぐちゅりと卑猥な水音が立つ。
「あ、ぁ……」
「そろそろ……僕も限界です……っ」
ホンルの声が、かすかに上擦る。イサンは彼の顔を見上げた。
汗で濡れた頬に髪が貼りつき、額に張りついた前髪の隙間から覗く翡翠の眸は、獰猛な光を湛えている。
ホンルは荒い呼吸のまま、イサンの腰を掴むと激しく抽送を始めた。
「あ、ぁ゛っ!」
肌と肌がぶつかる乾いた音。香油と体液が混ざった淫靡な水音。
「あ、や……っ! ほんる、くん……っ」
激しい動きに合わせて揺さぶられながらも、イサンは必死にホンルの名を呼ぶ。
そのたびにホンルの動きがほんの僅かに和らぎ、代わりに情欲が色濃くなった。
「もう、僕だって……余裕ないんですよ……っ? イサンさん――っ」
ホンルの腕に抱かれて、何度も揺さぶられているうちに、徐々に身体の奥底で疼いていた熱が爆発しそうな勢いで膨れ上がる。
「あ、ぁ……ほんる、く……!」
「――っ!」
ホンルは最奥を突き上げながら、同時にイサン自身に指を絡め、射精を促すように擦り上げた。
「あ、ぁあ――!」
過ぎた快楽に耐えられず、イサンはホンルの腕の中で果てを迎える。
絶頂の波に打ち震える身体をホンルは強く抱きしめ、最後の一滴まで注ぎ込もうと腰を深く押し付ける。
「ぁ……」
やがてホンルがずるりと自身を引き抜くと、栓を失った秘孔から白濁が溢れ出た。 未だ快感の残滓に苛まれているのか、ひくひくと四肢を震わせ、イサンは茫洋とした様子で小さく声を漏らした。
先ほどまで荒々しく、騒ぎ立てていた熱が、波が引くように静まっていく。
荒くなった呼吸が次第に落ち着きを取り戻していくにつれ、部屋を満たす静寂に意識が向かう。いつの間にか月は中天に昇っていて、窓辺から差し込む冴え冴えとした光が室内をぼんやりと照らしていた。
「……は…ぁ……」
隣から聞こえる小さな吐息に、ホンルは微睡みかけた意識を引き戻す。いつの間にか、イサンは眠ってしまっていた。横向きに丸まり、胎児のような姿勢で微かな寝息を立て始めている。
ホンルはイサンの無防備な寝顔を見た瞬間、その耳朶に触れたい衝動に駆られ、そっと手を伸ばした。
「……」
しかし、寸前で思い直し、宙に留まったままだった手をゆっくりと下ろす。
「……起こすのは、可哀想ですね」
散々乱してしまったせっかくの黒髪を、そうっと撫でつけてやる。指に絡む髪の感触を楽しみながら、静かにその寝顔を眺め続けた。睫毛を伏せ、無防備に眠る様に、ホンルはふ、と息を洩らす。
自分だけが大人げなく、しつこく抱き潰してしまったような気がして、少しだけ申し訳なくなってきた。次からは加減しなくてはならない、と反省しながらも、どうしても口許には笑みが浮かんでしまう。
彼の瞳の下の涙型の刺青が、今は微かに赤く滲んでいるのが妙に艶っぽくて、いけないことだと思いつつ、つい見入ってしまう。
何を考えているのかわからないと言われがちなイサンが、こうして寝顔をさらしてくれるのが嬉しい反面――その寝顔を誰にも見せたくない、と思う独占欲が芽生えていた。
「まったく……いけませんね。そういう関係では、ないでしょうに」
苦笑を浮かべてみたものの、ホンルはなかなかその顔から視線を逸らすことができなかった。
◇
鴻園は薬指にとって、重要な取引相手だ。翼の持つ技術に関する品物はもちろん、素材の調達先としても。特にホンルが薬指に入ってからは、鴻園は薬指と良好な関係を築いている。
故に、鴻園とは定期的に使いの者を通じて連絡を取り合っている。イサンが技術者としての知恵を提供するように、ホンルはその強いコネクションを通じて、薬指に利益をもたらしていた。
「素材のご提供、いつも助かっています。そういえば、あの珍しい――オオカミですかね? それとも犬の方でしょうか。――そうです、その動物。お婆さんからですか? 野獣派のドーセントがとっても喜んでいました」
ホンルはアトリエの作業台に頬杖をついて、使いの男と談笑する。
「――それは良いことですね。バオユ様も何かご所望のものがありましたら、ご準備いたしますよ」
「そうですね……」
そう問われて、ホンルは少しだけ考え込んだ。特別に必要な物はない、そう言いかけて、寸前でその言葉を止めた。
不意に、ふと自らの義眼を瞼の上からなぞる。そして、ホンルはあ、と何かを思いついたように使いの男を見遣った。
「少々、特別なものですが、お願いしたいものがあります」
ホンルはそう言って立ち上がると、壁に接するように据え付けられたデスクに向かう。引き出しから見るからに上等な書翰箋を取り出すと、万年筆でさらさらと何かを書き付け始めた。それを封筒に入れて封緘を施し、使いの男に差し出す。
「これをお婆さんに渡してください」
「ジア・ムー様にですか? それほど貴重なものを……?」
「貴重というか、ちょっと込み入った事情があるんです。まあ、知らない方が良いことですよ」
ホンルの柔和ながらも、釘を刺すような物言いに、男は口を噤み、生唾を飲み込むと深々と頷いた。
「ふふ、そこまで怖がらなくても。それではお願いしますね」
ちょうどその夜が、逢瀬の時間だった。場所はイサンの部屋だ。
イサンは恒温槽の記録を取りながら、試行錯誤を繰り返している。身体派の先達が残した様々な記録は大方調べ尽くし、ホンルがイサンに出来る助言も少なくなってきた。
ホンルはイサンから意見を求められた時以外、持参したクロッキー帳で今後の作品の構想を練る時間に充てるようになった。具体的に言えば、イサンの髪をどのように使って、作品とするか。
せっかく伸びてきた髪を傷めたり、汚したりしないように、ホンルはイサンに髪を結う布紐を与えている。その布紐で髪を束ね、作業をしている姿を後ろから眺めるのが、今のホンルの楽しみだった。
「……そういえば、今日鴻園の人間と話す機会がありましてね。また色々と、素材を融通して貰う予定なんです。必要な物があれば、手に入るかもしれませんよ」
「――ふむ、魅力的な提案なるが……時期尚早なり。新たな素材を使用せんとするも、正確な道理を持って選ばねば、意味もなし」
イサンはホンルに背を向けたまま、すげない返事をした。
「ふふ、そうですか。いつもなら、いつもは身体派がどうのと言っている人間すらも、すぐに飛びついてくるのに」
「少なくとも、今は、不要なり。……されど、得べき素材の見えし暁には、ホンル君の伝手、恃みとする日も来たらん」
イサンはそこで作業の手を止め、視線だけをホンルに寄越した。
「ホンル君にも、旧知の朋がありしか」
唐突なイサンの問いに、ホンルは少しだけ目を見開くと、うーん、と首を傾げる。
「子どものころに一緒に遊んでいた人とかはいましたけど……旧友と呼べるような人はいませんね。まあ、僕はちょっと家の中では特殊な立場なので……色々と良い待遇はさせてもらってますけど、それだけです」
ホンルの答えを聞いて、イサンは「……さりか」とだけ返した。
「……何か気になることでも? もしかして、嫉妬でもしてくれましたか?」
冗談混じりにホンルがそう聞くと、イサンは少し逡巡して、ぽつりと答えた。
「……昔の朋、九人会の人間より、文が来し」
今度は、ホンルの手が止まった。
「新九人会、とやらへの勧誘なり。曰く、再び翼を共に、と」
「……お返事は?」
「せず。かの文、乳鉢の下敷きに供したり。……存外、良き紙にて」
ホンルは、思わず吹き出して笑い声を上げた。
「下敷き! ふふ、それはまた、実用的な使い方ですね」
「ただの再利用なり」
二人は、少しの間、声を出さずに笑った。
夜半、作業がひと区切りついて、ホンルは湯を沸かした。
薬指に来てから覚えた、安い茶葉の淹れ方で、二人分。イサンは杯を両手で包み、湯気の向こうで、ぽつりと言った。
「ホンル君は……幸福か。ここにて」
珍しい問いだった。この男は、感情の在庫を尋ねるような問いを、まず口にしない。
ホンルは、少し考えて、正直に答えることにした。
「ええ。幸福ですよ」
「……即答なりしか。なにゆえ、迷わぬ?」
「即答できるんです、これだけは。……鴻園に居た僕は疑問を、『問い』を持ちませんでした。いや、持てないんです。あそこでは全部が決まっていて、僕はただ綺麗なだけの宝玉でした。だけど、ここにはたくさんの『問い』があります。素材をどう美しくするか。次に何を作るか。あなたの髪が、あと何センチで腰に届くか。……問いに囲まれて暮らせることを、幸福と呼ばずに、何と呼びましょう」
「……最後の一つは、問いの質が違わぬか」
「おや、そうですか? 僕にとっては、同列の重要案件ですけど」
イサンは、呆れたように息を吐き、それから、茶を一口飲んで、言った。
「……私も、幸福と申して良きやも知れず」
あくまで留保を選ぶのが、イサンらしい。断定は、検証が終わってから。そして、幸福などという茫漠とした概念の検証は、生涯かけても終わらないだろう。きっと、永遠に確信できないままだ。だからこそ、それがイサンなりの、最上級の答えだった。
